2014年4月26日土曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その5】人はひとりぼっちである

 うちの奥さんが僕と結婚したときに驚いたのは「それはもう、なんという友達のいなさ」ということでした。

 なので、小学校以来の友人に出会ったりしている僕の姿を見て、「あんたにも友達がいたんや!」とさらに重ねて二重の意味で驚いたそうです。


 さて、最初に申し添えて起きますが、上記のとおり、僕には友達がほとんどいません。

 
 というより「友達は要りません」と考えているほうに近いと思います(笑)


 なので、今のようにSNSが全盛になり、FacebookがどうたらとかLINEがどうたらとか、セケンでは盛り上がっているようですが、あまり僕は影響を受けていないと思われます。


 ところが、僕は友達は全くいないのですが、仕事では最終的に数百人に上る顧客や関係者と毎日にこやかに関わりを持っているし、別にやっている某趣味兼実益のほうでは、毎年何人も全国から「僕に会いたい、僕に▲▲を教わりたい!」という奇特な人がいらっしゃるので、喜んで出会ったりしています。

 ちなみに、僕の技術を伝達伝承した人は、すでに1000名以上に上ります。


 
 というわけで、僕のことを「社会性」の面から知っている人は


「ああ、ヨシイエさんはいろんな人と繋がりがあるなあ」とか

「ああ、ヨシイエさんこの活動にも顔出してるの?」とか

「ヨシイエさん(本名で)また、こないだ新聞に載ってたね」とか


そんな風に「社交的な人だ」と誤解しているに違いありません。


 断じて言っておきます。間違いです。僕は精神的には引きこもりに近い「孤独を愛するナイーブな」青年なのです。


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 僕が一見社交的に見え、いろんな活動の場を持っていることは、僕の「本質・心の中身」とは何の関係もありません。


 ショップの店員さんがいつも笑顔であるとか、女優さんが今日もにこやかにひな壇に座っているとか、そういうのと同じで、


 自分の役回りをポジティブに遂行している


ということに過ぎません。それを演じている、とまで言うのは、ちょっと極論かもしれませんが。


 なので、僕自身は「自分は基本ひとりぼっちであってよいし、それで十分気に入っている」というところに軸足を置いて、かつ、社会生活の上では

のびのび自由に

やっているのです。


 ベースの部分で、世間や社会やそれこそ友達に期待していないし、そこに必要以上の重きをはなから置いていないので、真の意味で自由です。

 誰にも振り回されることなく、自分の基準・規範・考え方を持つことが出来ています。


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 ところが、昨今では、SNS上での「友達の数」を競ったり、「いいね」をもらうことに気を揉んだり、「リアルが充実」していないと不安になったりする人たちが多いようですね。


 そういう意味では、新社会人のみなさんが歩んできた社会の雰囲気として「多くの人に愛され、認められているべき」であるというオーラが、そこかしこに漂っていると言ってよいでしょう。


 しかし、それらが幻想に近いものであることに、いち早く気付いて欲しいと思います。


 では、ここからは「なぜ人はひとりぼっちである」ということを知っておく必要があるのか、ということをお話します。


 キンパチ先生も言っているように「人は、互いに支えあって生きている」ということは、その通りだと思います。ひとりぼっちではなく、互いに手と手を取り合っている社会は、たしかに「良い」ものではあるでしょう。


 しかし、この社会では、「それが良いことである」という一般的な認識があっても、「それを社会は自分に施してくれる」という期待を抱いてはいけません。


 この社会のルールは、たいていの場合



■ 自分の行動については自分でケツを拭け(自己責任)

■ 困難は自分で対処せよ

■ 誰も、他人のやっかいごとに巻き込まれたくない

■ 誰も、あなたのために謝ってはくれない


ということが「最初のスタートアップ」であることが多いからです。


 それを忘れて、「誰かが自分を助けてくれるべきだ」と誤解をすると、ひどい目に合います。


 東北の震災の時に「てんでんこ」という言葉があることを知りました。津波からは、自分ひとりの力で逃げなくてはいけない。自分で判断しろ。という教訓です。


 そう、社会においては、あなたが身につけておくべきルールは、まず「てんでんこ」なのです。


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 ところが、「自力で、自分の力で戦っている」者を見ると、人間には逆にいいところもあって、周りにその真剣さが伝わり「サポートしたい・協力したい・アドバイスしたい」という気持ちが生まれるのもこれまた事実です。

 そこから、仲間・友達・同僚の力は、少しずつ結集してゆくことも確かにあります。。

 しかし、そうした仲間の力は、「あなた自身が自ら立ち向かっている姿」があってはじめて成立するのだということを忘れてはなりません。


 人はひとりぼっちである、という厳しさを知る者には、おかしなことに周囲が放っておかないものです。

 しかし、常に誰かに支えて欲しがっている甘っちょろい輩を見ると、悲しいかな人は「そんなん自分でやれや」と冷たい気持ちになるのです。


 
 「誰かに支えて欲しい」という台詞を言っていいのは、ベッドの中の女性だけかもしれません(苦笑)



 





2014年4月24日木曜日

「先進文化国」をめざすとき その2 先進文化とは「落としどころ」である

 前回のお話で、いわゆる「民度」(文化の成熟度)について書きました。その中で、それらを総括していうところの「文化」とは


 自己中心的な考えが横行していると文化が未発達である。

 他者や全体のことを考えていると文化が先進化している。


のではないか、というところまで、到達したと思います。


 これは、実は人類全体のテーマであり、全ての国家は、こうした意味において「文化的に成熟」することを目指してこれまでの歴史を歩んできました。


 少しだけ、この辺りのことを歴史的に振り返ります。


■ 狩猟採集の生活において「今日、今なにか食べ物を見つける」という行動から「1年間のサイクルを通じて何かを栽培する」という文化的進歩を遂げた。


■ 個々の生存よりも、集団・全体・組織を形成することで、全体としての生存率を高める方向に進むことで人類は文化的進歩を遂げた。


■ 上位の身分の者だけが安泰なシステムから、より数量的に多くの人がより安泰な生活を送れるように、身分制度から平等な社会を目指した。


■ 身分だけでなく経済的にも平等な社会を目指して、所得の再配分制度としての福祉の制度が作られてきた。



などなど。

 
 そうした流れの中で、「国家制度」「社会制度」においては、

「君主政治」から「民主政治」

へと変わり、さらに

「それぞれが自己の利益の最大化を目指す国家」(資本主義)から、アンチテーゼとしての「集団利益の最大化を目指す国家(共産主義)が発生

し、今に至るわけです。


 ちょっと余談ですが、こうした「我から他へ」「個から集団へ」という流れで文化は進化してきましたので、共産主義は資本主義より「上の」「発展形」の進化した考えだと一部では思われていました。


(なので、当時の進歩人や文化人・知識層は、共産主義・社会主義的理念にハマったわけです)



 ところが、ご存知の通り、実は「資本主義」も「共産主義」もどちらもうまくいっていません。


 アメリカもヨーロッパも日本も、とりあえず資本主義でなんとかやっていますが、その実は「ただ単に借金や債務を先送りして、今いい生活をしているように見えるだけ」であり、また、共産主義は言わずもがな「うまくいっているところは無い」のです。


 誤解がないように言っておきますが、「資本主義」も「共産主義」も、いろいろな問題点や欠点を抱えたままで運用されています。


 翻って言えば「個の利益追求だけを求める」のもうまくいかないし、「集団の利益追求だけを求める」のもうまくいかないのです。


 それはなぜか。


 さっき振り返った歴史を見ればわかるように、人類は「そもそも死ぬ。そもそも低い生存率のところを文化の発展によって、なんとか生きる確率を増やしている」ということに過ぎないので、



 個の利益追求だけを目指せば、個の生存率が最大値になる。(ただし、集団は危険にさらされる)


 集団の利益追求だけを目指せば、集団の生存率が最大になる。(ただし、個は危険にさらされる)



わけではないからです。そうです。そもそも集団とは個の集合体であり、個の利益と集団の利益は相反する部分がある以上、それらがピタッとハマって最大化することはないのですから。


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 ということは、先進文化の目指すところは、究極的には「個の利益の最大化」「集団の利益の最大化」ではなく、「個と集団の利益のバランスが良い状態」「個と集団の利益のつりあい」「相反する利益の落としどころ」ということになるでしょう。


 そういう意味では、セカイが帝国主義から資本主義になり、共産主義との中で確執を生んだり、あるいは資本主義の中において、アメリカの健康保険法案ではないですが「社会保障のあり方」で迷ったり、いろいろしながら現在もまだ「落としどころ」を探っているといえるでしょう。



 個人主義とナショナリズムが、交互に持ち上がることなどもその一例だと思います。



 この問題には実は正解がありません。


 マイケル・サンデルの提唱している論「白熱教室・これからの正義の話をしよう」がこの分野にかなり近いのですが、「どこに、何に落としどころを見つけるか」は、その時代や文化的背景によっても変動するものなので、まさに今もその正解を求めて世界は悩んでいると言えます。



 ただ、ひとつだけ言えるのは、そのバランス・釣り合いがとれる箇所がどこかはわからないにしても、「個の利益と集団の利益・他者の利益がそれぞれ異なり、そのことは理解した上で、かつそれぞれがある一定程度は尊重されるべきである」という事前の認識があることは、文化的成熟の大前提だということです。


 なので、「全体のために個は死ね」という論調は確実に誤っているし、「自分だけよければよい」という論調も、これまた確実に誤っているといえるわけです。


 (誤っている=文化的に遅れている)



 これから、世界や日本がどこまでこの問題を落としこめるかはわかりません。できれば、なるべく公平で公正な、誰もが「ああ、それなら納得であり、なんとか仕方ないから我慢できるわ」という位置でバランスを取ってほしいものですが、僕が生きている間には無理でしょう。


 その位置を見つけるまでに、何度もの事件や事故や争いや戦争を経ないと無理だと思います。

 なぜなら、その程度までに人類は、基本的に低レベルだからです(苦笑)




2014年4月23日水曜日

「先進文化国」を目指すとき その1 ~アナタ・ワタシの民度を測る~

 最近、「先進国」とは何か、ということを問い直さざるを得ない出来事が多いように思います。

 それはたとえば、大変痛ましいことですが、先日の韓国での船舶沈没事件における、船員や捜索体制の不備の例であったり、あるいは中国における様々な公害やリスクの問題であったり、日本におけるヘイトスピーチやネットにおける数多くの問題のある書き込みであったり、とかく多くの


 科学技術や経済的には先進国となったけれど、果たしてそれだけで先進国と言えるのか


という問題が、目の前につきつけられているわけです。


 結論から言いますが、現在日本人の大多数の人は「どうも技術や経済が発展しただけでは、国家が先進化しているとは言いがたいのではないか」ということだけは漠然とわかっています。


 そして、特に日本人においては、中国や韓国との比較において「自分たちは民度が上がっていて、特に中国や韓国の人たちはまだ民度が上がっていない」かのように、思っている節があります。


 ところが、実際には、現代の日本においても「自分たちの民度を疑う」ような事件や出来事は多々起きているわけであり、世界共通の民度の尺度があるわけでもなく、ましてや


民度そのものの定義も曖昧


であるため、実のところ何をもって「民度が高い、低い」というのかすらイメージに過ぎません。


 ウィキペディアより 民度
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E5%BA%A6


 
 僕の個人的なイメージでは、民度という言葉は、多少何者かを揶揄するときに使われているきらいがあるので、ここでは成熟度合いというニュアンスにおいて総括的には


 「文化」


という言葉に置き換えてみますが、技術や経済だけではない「文化においての先進化」とは何かについて、真面目に考えてみたいと思います。


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 何をどうすれば「先進文化国」であるといえるのか、何をもって「成熟した文化(いわゆる民度を含めて)を持つ国家」であるといえるのか、それは意外に単純です。


 わかりやすくするために、反対事例を挙げてゆけばよいかもしれません。ここでもわかりやすくするために「民度」という言葉に舞い戻りますが、お許しください。




■ 他者・外国や外国人を差別するものは、民度が低いと思われる。

■ 公害を発生させる企業など、「自己中心的で、自分さえよい」という態度は民度が低い。

■ 自分の保身のために、公正なデータを捻じ曲げたり、ウソをつくことは民度が低い。

■ 約束をすぐに違えたり、信頼できない・保証できない行動が多いことは民度が低い。

■ 尊大で横柄な態度ばかりとっていて、立場に適切な態度が取れないことは民度が低い。

■ わいろや不正が横行することは民度が低い。

■ 今だけよければ良いという態度や考えは民度が低い。



・・・・・・他にもいくらでもあるでしょうが、ざっとこんな感じで列挙できますね。


 これらを概観してまとめると「自分の状況をよくするために、それだけを中心に行動し、他者を省みない」ということが総じて民度が低いと考えられるということがわかってくると思います。


 ということは、逆に考えると民度が高い、文化水準が高い、先進文化を持つということは、つまり、


 他者あるいは全体のことを考慮できる。配慮できる。


ということに単純化されるかもしれません。



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 このことは、「国民国家」だけでなく、アナタ・ワタシにもあてはまります。たとえばこんなチェックで、自分の民度を測ってみるというのはどうでしょう。



■ あなたはその人の属性(たとえば正社員と非正規・性別・学歴など)で差別・区別することがありますか。


■ あなたは住んでいる地域の自治会活動や学校のPTA活動と自分の予定のどちらを優先しますか。


■ あなたはトラブルが起きたときに、上司に正確なデータを報告せず黙っていることがありますか?


■ あなたは、毎月の光熱費などの請求を遅れずに支払っていますか?


■ あなたは間違いを犯した店員に対して怒鳴ったり、「店長を呼び出したり」しますか?


■ あなたは間違えておつりを多くもらったり、自販機に残っていた小銭を着服しますか?


■ あなたは月給以上の買い物をカード等で購入しますか?



 どうですか?国家国民レベルでは自分たちは民度が高いと考えていても、それを構成する一人一人のワタシ達となると、怪しいものです。

 上の質問は、先の質問を低レベルに置き換えただけです。


「へえ、誰それちゃんはどこそこしか出てないんや」と思ってしまったり、地域の自治会活動は無視したり、前日にゴミを出したり、トラブルの時は「これはちょっと黙っておこう」と考えたり、お客様は神様だろうがと思ったり、大きなローンを抱えていたり、するでしょう。

 
 まあ、人間なんて所詮そんなものなので、落ち込む必要はないですが、民度が高いと思っている我々ですら、そのレベルなのですから、人類はひどいものなのです。



(この節つづく)







2014年4月21日月曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その4】「怒り」は捨てなさい

 ボクのしょーもない40年の人生の中で、「ああ、この人の人生はもったいないなあ」と思う場面にいくつか出会ったことがあるのですが、それらに共通して言えることがいくつかあります。


 それは「こだわりを捨てない人は損をする」ということです。


 こだわり、という言葉は難しいもので、本来は「全くもってマイナスの意味の言葉」なのですが、現代では

「こだわりの名品」

「こだわって仕事をする」

などのプラスの意味で使われることも多く、誤解を生みますね。



辞書における「こだわる」の意味はこうです。


★ 小さなことを気にする。捉われる。

★ つかえたりひっかかったりする。

★ 難癖をつける。けちをつける。

★ 自由に考えることができなくなる。

★ 差し障る。


あれまあ!本当に悪い意味ばかりですね。




 職業人・社会人の中には「自分はこの件・この分野にはこだわりがある」「こだわって仕事をしている」という人が確かにいます。

 しかし、そうした人たちは、仕事の回転がうまくいってるうちこそ、そうした「こだわり」を自慢していますが、ちょっと流れが悪くなったり需要が減ると、人知れず消えていくことが多いです。


 大切なのは、こだわりではなく「柔軟に対応できること」だと思います。いかなる時においても。


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 しかし、大半の人は、上記のように「こだわりを捨てて、柔軟に対応しなさい」ということを言葉で言われても、真の意味で理解しません

 むしろ「俺は柔軟だ!」と頑なに主張したりしますので、ここではよりわかり易い言葉に改めたいと思います。


 新社会人のみなさん。 怒りを捨てなさい。怒るな。


と。


 このほうが数倍わかり易い金言だと思います。そう。社会生活、サラリーマン生活、あるいは仕事生活の上で最もに近いぐらい大事なこと、それは


怒るな


です。


 残念なことですが、現代の日本社会は、たとえば「会社の不正を発見し、それを正義に基づいて訴えても自らも損し、会社も損する」社会です。


 このことは、それこそネット社会ですから、「内部通報者」がどのような処遇になり、そして会社がどうなったかの事例がたくさんありますから検索してみてください。


 繰り返し残念なことですが、「内部通報者が正義の名において良い結果になった事例」がほとんどなく、「それによって会社が改善された事例」がほとんどないことに気付くでしょう。せいぜいその会社がつぶれるくらいです。


 これは、日本社会の成熟度が、正義の意味においてそこまで到達していない、という証でもあるので、重ねて残念なことですが、所詮その程度のレベルなのです。わが国は。


 ということは、新社会人の諸君が、「これは正義の名において間違っている!断じて正さなくてはいけない!」という正義の怒りを覚えたところで、それは改善もされず、そして、その怒りによってあなたは生きづらくなることを示します。


 だったら、社会人であれば別の方策を模索したほうがよほど健全です。生き延びてください。


 昔、山口さんという裁判官が「闇市の食料を買わない」と決めて餓死したことがありましたが、それほどまでに正義を貫くよりも、ボクはあなたに「生きろ!生き延びろ」と伝えたいと思います。



 ウィキペディアより 山口良忠


 
 そして、あなたの生きる会社がそれほどまでに「正義」を失っているのであれば、遠慮なく


「辞めろ!辞めてしまえ!」


と伝えたいと思います。


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 とまあ、ここまでは一応「正義感に基づいて」会社が善ではないと感じた時のお話ですが、まあたいていの場合は、新社会人のあなたの感じる


「怒り」


というのは、貴様の小さなプライドを傷つけただけの屁みたいなもん、に過ぎません。

 その怒りの源泉は、ゴミやカスレベルであり、それごときで怒りを覚えるあなたも同レベルです。


 そう、最初の話に繋がります。「その怒りをもらたした、あなたのプライドやこだわりなど、取るに足りない」ということです。


 社会で生活していると、いろいろなことであなたのプライドは傷つけられます。怒りを覚えることが多々あるでしょう。しかし、社会生活や会社人として生きるうえで、そうしたプライドは完全に不要です。


 それと同時に、相手があなたにぶつけてくる、これまた「怒りやいいがかり」についても、全く気にする必要はありません。それもカスのようなものです。


 たとえばこんな場面を考えます。




 あなたは顧客に大声で怒鳴られたとしましょう。あなたが本当に悪くても、本当はあなたは悪くなくても、顧客は大声で怒鳴りつけます。

「なんでそこまで言われなあかんねん!」

と内心怒りを覚えることでしょう。

 しかし、ここで考えてください。なぜ、顧客は怒鳴るのか。


「そりゃ、俺が悪いと思っているからやろ」


と単純に考える人が多いと思います。たしかにそうですが、それは表面的なことです。



 本当は「顧客があなたに怒ることによって、自分のほうが偉いんだという感覚に陥ることができる」というのが心理的な理由です。


 人は、他者より優れていると思うことにものすごく快感を覚えます。自分は勝者だと、盛り上がります。自分は正義の鉄槌を下している「正しい者だ」と思うからです。


 そして、あなたの方は、「そこまで怒ることや、威圧的態度で接する者は悪だ」と内心思っています。


 なので、向こうも「自分は正義だ」と心の中で感じ、あなたも「本当は自分が正義でむこうが悪だ」と感じていることになります。

 つまり、どちらも同じレベルなのです。


 同レベルの怒りがぶつかりあっているだけで、何も建設的なことは生まれていません。


 だとすれば、今こそ怒りを捨てましょう。

 
 怒りを捨てるということは、正しい判断をするということです。

 
 つまり、本当にあなたが悪いことをしたのでそうなったのであれば、心から誠意を尽くして謝ることで、逆にあなたは悪くないのに怒鳴られているのであれば

「ああ、この人は私の優位に立つことで、小さな虚栄心を満足させている可哀想な人だ」

と思うことです。だとすれば、哀れみこそ生まれても、怒りは消えます


 怒りが消えれば、適切な結果を導くことができます。


 心から謝罪することもできるし、相手の小さな虚栄心を満足させるしたたかな態度を取ることだってできるのです。


 いずれにしても「怒りは不要」です。






2014年4月19日土曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その3】公平で平等な世界は、既に終わった

 卒業おめでとうございます。そして、新社会人になっておめでとうございます。

 4月ももう後半に差し掛かり、社会での生活もいよいよ本格的に動き出したことでしょう。

 
 今回の金言は、そんなみなさんに送る真実のことば、


「公平で平等な世界よありがとうさようなら、そして不公平で不平等な世界よこんにちは」


です。


 学校生活を終えたみなさんにとって、「公平で平等な世界」は既に終わりました。ここからはガチで不平等な社会です。

 
 学校、とくに公立の学校というところは、とても「公平で平等」であるように構築されています。もちろん、日本の社会において「公平で平等」に何かが運営されることは基本的にはとてもいいことで、そうあってほしいものなのですが、実際の運用レベルでもそれが守られているところ、というのは実は学校ぐらいしかありません。



 もし、学校で公平じゃない部分があるとしたら、「不良が先生に嫌われている」とか「成績のいい誰それちゃんはえこひいきされている」ぐらいのことで、そんなのはゴミカスレベルでどうでもいいことです。


 むしろ、たいていの学校の教師は、不良であっても比較的手厚くどうにかしたいと考えており、成績のいい誰それちゃんがいくら素晴らしくても、通知表を書き換えて上位の学校に推薦できるほど度胸はありません。

 つまり、教師という人たちは、基本的には善良な考え方で行動していて、かつ生徒の人生における結果を左右できるほどの決裁権は持っていないということです。


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 それに引き換え、これからの世界は「完全に不平等」です。これまでは、学校の勉強さえしていれば、とりあえず「良い成績」を貰えましたが、何をしてもよい成果をもらえない企業人は山ほどいます。


 努力をしたら成果が出る世界から、努力をしても給与は上がらないかもしれない世界へようこそ、というわけです。


 それを簡単に証明してみましょう。


「あなたは電機メーカーに就職しました。ウォークマンやipodに匹敵するような音楽再生機を開発してヒットを飛ばしてください」


 そんな課題を与えられて、クリアできますか?


 僕にはできるかどうかわかりません。クリアできないのを前提に、それでもやってみなくてはなりません。成果なんて、出るかどうかわからないし、努力が報われるのならシャープやサンヨーはあんなことにはなっていません。


 それが社会です。セカイの成り立ちが根本的に違うのです。


 しかし、学校の勉強では、時間さえかければどんな課題もクリアできたはずです。どんな問題もいつか解けたはずです。


 でも、このセカイにつきつけられた課題は、解けるかどうかもわからないのです。


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 では、不公平で不平等なセカイを生き延びるために、世のお父さんたちはどのように頑張っているのでしょうか。


 いろいろなテクニックがありますが、それらの中からいくつか紹介しておきましょう。


①いつかのラッキーを手に入れるために、数を打ってみる。

 メーカー系ではよくある作戦です。新商品をいろいろ策を練りながら次々に投入します。いつか当たるかもしれません。(最後まで当たらないかもしれませんが)


②自分の立ち位置を確立する。

 美人が求められる部署に、いくら努力してもブサイクは配置されません。残念ですが。なので、顔に関係のない能力をどこで生かせるか試行錯誤すればいいのです。

 
③とりあえず、上司に従順になってみる。

 実力がない人には、とりあえず効果があります。「あいつは可愛いやつだ」と思ってもらえることは、かなり効果的です。


④誰かとつるむ。

 自分だけでは戦えない時には、だれかとつるんで密談をする場合があるでしょう。利害関係者と裏で話を合わせたり、あるいは誰かに便宜を図ったり・・・。


⑤抜け駆けをする。

 「ずるっこ」することでなんとか体制を持ちこたえさせることが多々あります。地域最安値を打ち出して他社を出し抜いたり、「他のところではこの値段だよ」「じゃあ、それより安くします」とか。
 あるいはうちへ変わってくれたら現金をあげますとか。



・・・・だんだんレベルが落ちていくので、このへんで。


 もし、あなたがどうしても「社会の不平等」に耐えられなくて、死にそうになったら、まずは僕にメールをください。

 いくらでも話を聞くだけ聞いてあげます。



2014年4月18日金曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その2】実力主義・成果主義を信じるな

 今年、40歳になる僕が、いわゆる社会人として世の中に出ていた期間は18年です。それを長いと見るか短いと見るかは、いろんな考え方があるとは思いますが、僕のこの「18年間」で学び知ったことを今回もお届けしましょう。


 新社会人の人に覚えておいてほしいことの2つ目は、


「成果主義や実力主義の言説に惑わされるな」


ということです。


 海外型の働き方が日本に入ってきたり、企業の査定の上で成果を重視した評価が導入されたりした結果、「成果主義」「実力主義」なるものが一定度合い「当たり前」のようになっている昨今ですが、こうした考え方に惑わされないように、少しだけ留意しておいてください。


 これらの「成果主義」や「実力主義」なる言葉は、特に上昇志向の若者の心をくすぐります。

「実力のあるものが高い収入を得て、成果を出したものは評価されるべきだ」

という考え方は一見正論のように見えます。


 なので、若者からすれば「あまり働いていないように見える上司やオヤジ」や、「地位にあぐらをかいている年配者」に対して、批判したい気持ちが生まれるのもわかります。


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 しかし、「力のあるものが評価されるべき」という論理がいかに理屈の上で正しくても、実際の運用においては恣意的なすり替えが行われていることのほうが多いのです。


 そもそも、まず「実力主義、成果主義」を計るものさしを考えた時に、それが正確に機能するためには、金額ベースの売り上げもしくは、数量ベースの出荷数などの

「数字」で計測する

以外に方法はありません。ということは、実力があるものとそうでないものを測りつつ、それを給与や待遇に反映させるためには

「完全歩合制の仕事」

でなくてはならない、ということになります。


 完全歩合制の仕事であれば、当然出荷量もしくは売上高でその人の実力を測ることができます。しかし、おそらく、このブログを読んでいる人の95%以上の人は


完全歩合制では働いていない


と思います。



 となると、いわゆるふつうの月給制の仕事において「あいつは実力がある」「俺には実力がある」ということを正確に計測できる職種というのは、とても少ないことに気付きます。

 例えば営業職であれば「月給基本給+歩合制」というところもあります。そういう給与体系の人は、既に実力主義でかまいませんが、それ以外の人の能力をどうやって計測すればいいのでしょうか。


 たいていの場合、それが企画職であれ、事務職であれ、あるいは現場サイドの仕事であれ、その人の仕事の評価は


上司が体験的に判断している


ことがほとんどです。


 なぜなら、上司は数量的に計測できないので、体験的に「雰囲気・イメージ」を加味しながら判断せざるを得ないのです。


 もう、この時点で「実力主義・成果主義」なるものが怪しくなってきていることに、賢明なあなたなら気付くことでしょう。


「なあんだ、つまり実力とは『上司に気に入られる力』なのか」

と。


そうです。そして、上司は気に入ったものに、「成果の出る仕事」を与えます。


 嫌いなヤツに「大きなプロジェクトを任せる」ことはしません。


 ということは、「気に入られた部下は、成果が出るプロジェクトにつくことができ、成果を出すことができる」というプロセスが存在していることがわかりますね。

 こうして、結果として、「あいつは実力がないのに、なぜ俺より評価が上なんだ!」という問題が生まれるわけです。



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 この社会においては、「実力」とは「販売力・提案力・企画力・実行力」だけを指すわけではありません。


 それより価値があるのは「媚びる力・従う力・耐える力・甘んずる力・捧げる力」だったりします。そう、これらも社会における実力の一部なのです。



 こうしたことを知っているか知らないかは、大きく人生を左右します。


 そういうもんだ。社会にはそうした変な側面がある。社会はちょっと(性的な意味じゃなくて)やらしいところがある。

という前提に立って仕事をすれば、気がかなり楽になり、のびのび仕事できるはずです。


 しかし、社会は表立って「媚びろ!従え!耐えろ!甘んじろ!捧げろ!」という要求を口に出してしません。

 そのあたりを大人は「空気を読めよ」とわざと黙っているのです。そう、あなたたちの好きなKYの話です。

 空気をよめ!と思っているのは大人だって若者だって同じなのです。空気を読めないヤツは、疎まれる。それは大人も子供も同じです。



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 もう少し他の側面から、「実力なるもの」を検証してみましょう。


 とある会社の営業部に配属された新人君から見ると、おなじ営業部の先輩あるいはプチ上司の係長や課長と自分を比較して、ある事実に気付きます。


 先輩は、あまり努力をしなくても、勝手に顧客が注文をくれるのに対して、自分は新規顧客を獲得するために走り回らなくてはなりません。これってどうなんだ?なんだか不公平な気がする!と思うのです。


 先輩は、既に100の顧客を有しているため、努力をしなくても売上目標を達成できます。そして、売上高も高く、査定の結果高い給与を維持しています。


 新人君は、10の顧客をあてがわれたものの、それ以上の顧客を探さなくてはならないため、当然売り上げ目標に到達しません。そして、給与は低いままです。



 こうした状況を見て、「悶々」とする若者はたくさんいるでしょう。


 会社にとって「実力がある」のは先輩で、新人君は実力がありませんので、低い評価となります。


 この状態で「成果主義が大事だ!」「実力主義がいいんだ!」と誰かが唱えれば、


「ああ、これじゃぜってえ俺たちは先輩に勝てないじゃん」


ということに気付くと思います。


 そうです。実力主義を叫ぶということは「既得権益を守る」ことを示す場合もあるのです。


 この場合は、実力という言葉の裏に「経験や年数」が隠れていることに気付かなくてはなりません。


 もちろん、僕はこうした上司や先輩を批判しません。彼らは若いときに同様の経験、一からのスタートをして、そうした100の顧客を勝ち取ってきたという歴史があると思うからです。それは尊重に値することです。


 「今楽そうにしている人たちは、かつてバリバリ戦っていた」ことはよくある話です。


 しかし、本当に実力主義だらけの世の中になると「バリバリ働けなくなった瞬間に脱落する」という社会が訪れるということですから、大人たちは、あなたが思うのと同様

「そんな社会は嫌だ」

と今の楽な身分を失いたくないのです。従って、努力は常に若者にあてがわれるわけです。



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 新社会人にとって、これからの世界は理不尽なことや怪しいことがたくさんまかり通っていると思いますが、そこにはかならず理由があります。

 逆説的に言えば「実力主義・成果主義」を推し進める言説があるとすれば、そこにどんな「裏の意図」があるのかもちょっと考えたほうがいいかもしれません。


 いちばんアホなのは、「自分には実力があるのに、評価されない」と思い込んでフリーランスになることです。


 そういう人は、実力がないことがほとんどです。残念ながら。


 本当に実力があって独立する人は、そこに至るまでに周到な根回しをします。それは、やっぱり

「媚びるフリ・従うフリ・耐えるフリ・甘んずるフリ・捧げるフリ」を着実に遂行できる人だということなのです。




 







2014年4月13日日曜日

買ってはいけない!マンションの話。

 こちらのブログではあまり「マイホーム」関連のことは書いていないのですが、実はもともとヨシイエの専門は「おうちの話」でございました(笑)


 そんな昔の話の載っているブログはこちら↓


 吉家孝太郎のマイホームあれこれどれそれ
 http://blogs.yahoo.co.jp/nensyu_300


 さて、今日は久しぶりにおうちの話を思い出しながら書くのですが、なんとここで


STAP細胞もビックリ!な新しい理論を提唱しながら話を進めます。


 まあ、気楽に読んでくださいな。


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「バブル」なものがヤバイ、ということは現代日本人なら実際にバブル時代を経験してきて体験的には知っているわけですが、バブル時代を享受した人からすれば

「あんなおいしい時代はなかったなあ」

という感想でもあり、

「しかしまあ、あんなにお金がお金を生むはずはないわな。はじけて当たり前だよな」

ということもなんとなく納得しているはずです。


さて、バブル(経済)とは簡単に言えば何か。

それは実際の価値以上に「それを欲しい」と思う人の数が増えることです。


 たとえば、チューリップバブルというのがありました。オランダでチューリップが「価値があるらしい」と誰かが思い、それが伝播してみんながチューリップの球根を追い求めた結果、値段がべらぼうに上がって、最終的には

「チューリップにそれほど価値があるわけではない」

という当たり前のことに気付いて一気に価格が下落した、という史実です。


 日本経済におけるバブルは、「株式や土地」を対象にして、「それを欲しい」「それに価値がある」と思い込んだ人たちが激動の日本史を形成しました。こんなのは、みなさんもご存知のはずですね。

 
 となると、そもそも実際の価値以上に「欲しい」と思う人が増えているだけですから、実際の価値と乖離して価格が上がってしまうと「欲しい」人が急激に減るわけです。

 そうするとバブルははじけます。

 今度は、誰も「買ってくれなく」なるわけで、価格は急激に下がってしまいます。


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 ここまでは、たいした話ではありません。そして、世界のどこでも「ああ、できるならバブル経済になることは避けたいよね」と思いながら毎日暮らしているはずです。


 ところが、急激に膨らんで急激にしぼんでしまう、いわゆるみなさんの知っている「バブル」に似ているんだけれど、誰もそれが「バブル」だと思っていない現象があるのをご存知でしょうか。


 それが、「マンションの購入」です。


 ここから先は、僕の仮説です。


 マンションの購入が「バブルに似ている」なんてことを現代の誰も信じちゃいないと思いますが、僕はこんなふうに考えています。

『バブル経済は、一気に膨らんで一気にしぼんでしまうので混乱をもたらすけれど、ゆっくりふくらんで、ゆっくりしぼむものや、膨らんでから一定の期間その形を維持するものは、気付かれない』

のではないか、と仮説を立てているのです。


 経済学的には、「ゆっくり膨らんで実態経済のインフレと同調しているもの」については、バブルだとは考えられていません。それは単なるまともな経済現象です。

 
 僕が提唱している「ポリバブル理論」は、それとは異なります。「膨らむもののうち、最後にしぼむことが確実なのに、長い間持ちこたえるもの」を「ポリバブル」と呼ぼう、ということです。



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 ポリバブルとは何か。


 こどものおもちゃ、玩具で、チューブからストローに液体をからめて、「ぷーっとふくらます」おもちゃがありますね。

 ポリバルーンとかプラバルーンと呼ばれるものです。

 あれは「泡」そのものですが、外壁にあたるものの性質がある程度強いため長い間形を維持することができます。

 ハードシェル(硬い殻)なバブルだと言い換えてもいいでしょう。(ハードシェルバブル)


 このポリバブル理論は、「価値が膨らむ」→「それが一定期間維持される」→「最後はしぼむ」ことを想定しています。

 そういう意味では、バブル(経済)と本質的には同じなのだけれど、気付かれないもの、を指します。


 なぜ、マンション購入が「ポリバブル」だと言えるのか。それはこういうことです。


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 マンションの建設とは、平屋であれば10軒の家が建てられる敷地を押さえて、そこに高層で建物を建てるということです。

 高層にするため、たとえば、10軒分の敷地に対して、実際の部屋数は10階建てで計100軒の戸数を確保できることになります。


 この時点で、バブルの膨らむほうが発生します。実際の価値に対してざっくり10倍の価値肥大を起こすことができます。(10倍欲しい人を発生させることができる)


 問題はここからです。


 マンションの場合、10倍に膨らませた価値を、躯体レベルでおそらく60年程度維持できることになります。つまり60年間、建物は持つ、ということです。

 ところが、60年後、この価値はどうなるでしょうか。


 法律的には「区分所有」といって、100分の1の権利をそれぞれが保有することになりますが、実際にはそれは「マンション躯体」があってはじめて成立することになります。

 そう、ここで現実には「バブルが崩壊」するのです。


 60年後、躯体がダメになった時のバブル崩壊率(笑)について考えてみましょう。最初に10倍に膨れ上がった価値肥大が、いくらに集束(戻ってくる)かわかりますか?


 一見10分の1になるように思えますが、このバブルの場合、もっとひどいことに100分の1に集束して凝集してきます。

 60年後のマンションの価値判断、価値基準はたったのひとつに戻ります。


 それは「建て直すか、つぶすかを意思統一する」というたったひとつの決断です。


 建て直す場合、「相応の追い金(追加費用)をして、10倍になった価値肥大を維持する」ことができます。つぶす場合、10分の1に価値を引き戻すことになります。


 しかし、価値を維持できるかつぶすかは、「一瞬の判断」「一つの結論」を経ないと無理ですから、簡単に言えば

「所有者の意思を100分の1に統一」する必要があるということです。


 これははっきり言ってかなりのリスクですね。バブルは60年間しか維持できないことが最初からわかってるわけですから(苦笑)



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 よく似た話をもう一つ僕らは知っています。


 一回建設すれば、40年間おいしい思いが出来ると思われていた「原子力発電所」ですが、廃炉に「うん十年」かかることや、その他のリスクも明らかになってきました。

 原発利用とはある意味「ポリバブル」の活用なのかもしれません。


 経済学者さんによっては「ポリバブル」であっても、「その期間を有効に使えるはずだ」という論証を考える方もきっとおられることでしょう。


 しかし、本質的に、「ポリバブルはまっとうな経済現象に惑わされ易いが、その本質はやっぱりバブル」だとすれば話は変わってきます。

 
 さあ、世界の賢い人たち、ポリバブル理論を制圧してノーベル賞を取ってみませんか?!






2014年4月12日土曜日

担任がこどもの入学式に出て欠席な件

 いやはや、今日のこのニュースについての盛り上がりはすごいですね。

 ニュースというのはこれ。


 担任、息子の入学式へ・・・県立高校教諭勤務先を欠席、教育長が異例の注意
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140411-00010005-saitama-l11



 簡単に言えば、「担任を受け持った先生が自分のこどもの入学式へ出るために休んだ」ということです。


 ニュース上は、「これはあんまりよくないので是正しなさい」と教育長が注意をした、というくくりになっていますが、厳密には


 年次有給届けを出して、それを校長が受理したのであれば、なんの問題もないので、むしろ、その校長を指導しろ!


ということになると個人的には思います。


 校長は「職務命令」をかける権限があります。なので、「入学式には何を差し置いても出てください」と命令することは可能です。


 それをしなかったのだから、悪いのは校長です。一刻も早く更迭するべきです!なーんて。


 ↑というのは教育長サイドに立ったお話。


 さて、このことに関して世論は真っ二つに割れています。


「自分のこどものことを大切にして、権利を行使するのはかまわない」

という意見と

「自分の職務を置いておいて、自己の都合を優先するのはどうか」

という意見です。



 個人的には、とてもいい教材ですので、ぜひ「話し合いで解決して」ほしいものです(笑)



注)当ブログでこないだやりましたね。

【新社会人に贈る10の金言 その1】話し合いで物事は解決しない
 http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/03/blog-post_28.html



 ヨシイエ的には、最後は「フォース」で解決しなくてはなりませんから(笑)、


「職務命令をかけて、入学式・卒業式には出なさい」という圧力をかける

VS

「個人の権利は、尊重されるべきである」という人権圧力をかける


の一騎打ちですから、これは見ものです。


 人権と職務命令の対決ですから、さあどちらが強いでしょうか!!!!


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 そこでヨシイエから提案があります。ぜひこのことを「人権学習」として埼玉県のすべての学校で話し合いをしてみたらいいと思います。


「人権とは何か」「個人の権利は全体の利益の前に我慢するべきか」「有給休暇とは何のためにあるのか」など、学ぶべきことはたくさんあります。


このネタ、実はすごく壮大なテーマなので、埼玉版マイケル・サイタマの「白熱教室」「これからの教育の話をしよう!」としてガッツリやってみてほしいですね!



と思ったら、すでに埼玉県では「白熱教室」に熱を入れているそうです(笑)

 
 白熱教室 埼玉県立本庄高校
 http://www.honjo-h.spec.ed.jp/?page_id=257


  埼玉県の先進的な「高校生白熱教室」の試み
 http://astand.asahi.com/magazine/wrpolitics/2013080600008.html



だったら、一刻も早く生徒に議論させたらいいじゃん!!!

2014年4月11日金曜日

STAP細胞の論理 ~金星人は地球に来ているんです~

 今回はほんとうの呟きです。たいした内容ではありません。


 小保方さんのSTAP細胞に関する反論記者会見がニュースになっていますが、STAP細胞というものの科学的な理屈はともなく、論理的には


「STAP細胞は実在します」


という言説は


「金星人は地球に来ているんです」

とか

「UFOは実在するんです」

とか

「超能力はあるんです」


と論理的に非常に似ていることに、苦笑を禁じえないのでは僕だけでしょうか。


 小保方騒動を見ていて、一番はじめに思ったのは、

「ああ、なんだか御船千鶴子さんみたいな展開だな」

ということでした。


 御船千鶴子さんというのはあのホラー小説・映画「貞子」のおかんのモデルになった実在の人です。


 簡単に言えば「超能力・千里眼」がある、ということで科学者を交えて検証されるのですが、最後は結局「かぎりなく怪しい」ということで、彼女が自殺したことでうやむやになってしまった、という明治時代のお話でした。


 ちなみに、ひとことだけ言っておきます。御船千鶴子さんは、自殺したから「かわいそう」ですか?

 あるいは、「自殺するほどなので、たぶん真実だったのだろう」と思いますか?



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小保方さんの論理の検証は、僕が見た限りでは



金融日記 藤沢数希さんのブログ
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/


の考え方がいちばん明快かつ真実に近いように感じます。(個人の感想です)


藤沢さんの見立ては


①小保方さんが見た200回のSTAP細胞というのは、「マーカーが緑色に光る現象」を200回確認したというだけで、それは万能性細胞になっていない別の反応である。


というものです。


そして、

②それを本物の万能細胞ができた結果だと思い込んだ小保方さんは、それを証明する方向で突き進んだ。

のだが、途中から

③STAP細胞が存在するという立証をするために、小さなでっちあげを繰り返して今回の結果になった。

という仮説(いちおう)を説明なさっています。


 面白いので、ぜひご一読ください。


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 小保方さんが意図的にでっちあげをしたという「悪意」の認定は、現時点ではなかなか難しいことだと思いますが、悪意がまったくなくても、前述の話は成立します。


 つまり、「金星人はほんとうに地球に来てるんだもん!」心から信じている30歳の女子がいたとしたら、どうしたらいいか、ということです。


 「私、200回金星人に会った」

とか

 「他の人も金星人に会ってる」

とか、いろんなことはおっしゃられるかもしれません。


 となれば、我々が言うことはひとつですね。


「じゃあ、まずその金星人を連れてきてください」


 そして、第三者が見て「ああ、なるほどこれは地球人ではない」ということが確認できれば、たしかに金星人はいま地球にいることがわかります。


 あるいは、「これがそうです」といって提供された細胞が、たしかに既知の万能細胞とは違う、ということが確認されるだけでもいいでしょう。


(疑惑として、若山先生に提供された細胞が、どうやらES細胞のような「既にある」万能細胞だったのではないか、という問題がありますが、このことです)


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 ついでにつぶやきますが、たま出版の韮澤潤一郎さんに悪意があるか、という議論もいっしょにやっておいたほうがいいと思います。


 韮澤さんは、きっといい人です(笑)

 宇宙人とUFOについて「悪意はあんまりない」と思います。


 なので、小保方さんの悪意認定は、どうでもいいことで、問題は、証明に必要なプロセスがまったく整っていない、ということなのです。


 というわけで、STAP細胞を検証するためには


大槻教授


に依頼したほうがいいかも(笑)なーんて。





2014年4月4日金曜日

『保育所政策がうまくいかない』理由 実は単純!

 ユーレカ!

 じゃないけれど、「ああ、なるほど」納得した、ということは生きててそんなにあるもんじゃありません。

 でも、今日面白い記事を見つけて「こどもたちの保育所政策がうまくいかない理由」がすっきり・きっぱり・かっちりわかったのでご紹介しておきます。


 僕なりの結論。それは「保育所をたくさん作って、お母さんが働けるようにする」では少子化は解消しない、なのですが、その理由に向かって。まさに一直線です。


 元ネタ記事はこちらです。


 「保育所はなぜ需要があるのに増えないのか」(東洋経済オンラインさんより)
 http://toyokeizai.net/articles/-/33576



 保育所を増やせー!

とか

 子供達のための政策を!


とか、いろいろお母さんたちは叫んでいますが、上の記事を読めばシュパッと理解できると思います。


保育所そのものが、ああ、これはあかん。破綻してる。無理。もうダメぽ。

と。


 どういうことか、あなたの吉家孝太郎が明快に説明してみましょう。

 記事主さんは、認可保育所と無認可保育所の違いとか、補助金のこととかいろいろ丁寧に書いておられますが、

そんなのは全部すっ飛ばしてOKです。

それより、そもそも根本的な問題がある!



 いきますよ。


<前提その1>認可保育所の場合 こども3人に対して保育士1人が必要


<前提その2>こども1人に対して3.3平米必要(つまり、1坪でありタタミ2畳分)


 これだけでアウトですよ。すべてが。


 いいですか?こども3人の面倒を見るのに保育士人件費コストが1人分かかるわけです。

 保育士に15万の給料を払ったとして、子供1人から5万徴収しないとダメなんです。

 18万の給料なら、子供1人から6万ずつです。


 そして、子供達を遊ばせる部屋ですが、6畳のワンルームを仮に5万で借りて準備したとして、子供3人で割ったら1.6万円です。



 ということは、補助金なしだと、最低でも「子供を1人預けるのに、6.6万~7.6万かかる」というビジネスモデルだと言うことです。


 こんなん、頭のいい経営者じゃなくても、ふつうの素人でもわかりますよね。

あ、これじゃ無理。


 純粋な最低経費だけでこれですから、運営費用や電気代水道代、諸経費を考えたらこれは絶対に成立しないビジネスです。


 だからこそ国が補助金を投入しているのですが、ぶっちゃけこんなことに税金をアホみたいに投入していたら

国家の借金が増えるだけ

です。消費税が増えるだけ、です。



 そこで実際に何が起こっているかというと、記事主さんもおっしゃっているとおり「認可外保育所」を利用したり、先日の事件じゃないですが個人ベビーシッターが登場したり


 単にコストが安く保育の質を落としているだけ


の事態が起きているわけです。


 そりゃ、こども3人のところの母数を増やせばコストは落ちますよ。しかしその分、こどもはほったらかしになるだけです。


(そこで母数が増えてきます。


0歳児:保育士1人につき子ども3人

1、2歳児:保育士1人につき子ども6人

3歳児:保育士1人につき子ども20人

4、5歳児:保育士1人につき子ども30人

これでなんとか回せるようになるわけですが、保育の質は落ちますよね)





 こんなこと真面目に議論してもダメです。そうじゃなくて、母親がいかに家庭でこどもを守れるかの仕組みを考えたほうがいい。

 おかんが家にいてくれた昔の方がよっぽどマシです。


 

2014年4月3日木曜日

会社のつぶれ方を見ればわかること

 今日も、仕事でバリバリ車を走らせている間に、ふと思いついたことがあります。

 タイトルにすると「終末論」なんて書いてしまったのですが、より正確には「終末学」とでもいったほうがいいかもしれません。


 終末論、なんていうとキリスト教でいうところの「最後の審判がやってくるぞ!アルマゲドーン!」みたいな話とか、学校の歴史の時間に勉強した仏教的な「末法思想」とか、そんなのをつい思い出してしまいますが、ちょっとニュアンスが違いますね。


 うーん。しっくりくる言葉がありません。それもそのはず、こういったことをこれまできちんと扱ってきた学問がないからですね。

 
 言いたいのはつまり、こういうことです。「物事の終わりについて真面目に考える学問」をそろそろヒトは立ち上げないといけないのではないかな、と。

 
 それを「終了学」と呼んだらいいのか「終末学」がいいのか、「後始末学」でもいいし、「終学」でもいいけれど。

 
 どんな学問かというと、たとえば原子力発電について考えてみましょう。

 これまで原発の立ち上げと運用については真面目に考えてきたけれど、そのオシリの部分、つまり「ケツの拭き方と廃炉の方法」については、やっぱり人類は目を背けてきました。


 どこか遠い国のはるか地面の下に、「最終的に出る核廃棄物を埋めとく」ということをたったひとつの国でやっていますが、これほど科学技術の発展したG8以外の国がそれを受け入れてるというか、実施しているわけですから、いわゆる先進国は


 核のケツの拭き方


について、まともに学問していないことになりますね。


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 もちろん、私は原発反対論者でも、核廃止論者でもありません。そういうイデオロギーの問題ではなく、それ以前に「終わり方、仕舞い方」の学問がないことに驚いたわけです。


 他にもいろいろあります。「日本の膨大な借金のツケが最後にどうなる・どうするのか」とか、「共産主義の最後がどうなるのか」とか「民主主義の終わりの形は?」とか、ハイレベルなお話だと難問だらけです。


 もっと低レベルの話だと、最近になってようやく「終活」なんて言って「死に方・命の終わり方」について注目が集まるようになりました。そんなのも「終末学」の領域ですね。




 もっとも、終わりと始まりは密接にリンクしています。

 幕末と明治維新はセットです。帝国主義の終わりと民主主義の始まりは繋がっています。


 日本の借金がぶちかまされた最後には、新しい時代がやってくるし、アメリカが世界の警察を辞めたら、その後はどの国が覇権を持つのでしょうか。


 あるいは、戦後の「平和な時代」の終わり、がいよいよやってきて、次の戦乱の時代がはじまる予感もあります。


 こんなとき、「はじまり学」「スタートアップ」ばかりに目がいくと、戦争が近づいている機運の中で、「それいけ!やれいけ!」という雰囲気を生み出していくのでしょう。かつての日本のように。



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 実は私が所属している業界も、建築業界の中ではどちらかというと終息に向かっているベクトルな領域だと思っています。

 そんな流れの中で、製品を作っているメーカーは


①にっちもさっちもいかなくなり、借金を抱えてコケる。


という状況にいずれ追い込まれます。


 ところが、メーカーの中には


②うまく借金だけは返して、従業員は自然減で、最後はソフトランディング


を狙っているところだって実はあるのです。もっとやらしい話をすれば、


③製造はOEMに任せて、創業者一族の食い扶持だけ残して営業部門だけ生き残る


なんてことを絵に描いているところもあります。


 このあたりは、まさに「終末学」っぽいなあ、と思いますね。終わり、幕引きを「悪」と捉えるのではなく、もっと肯定してもいいのかな、と思います。


 右肩上がりの経済成長神話とは逆行するものですが、「終わりの美学」を追及するのも、実は大事なことかもしれません。



(今回はまとまりのない随想みたいになりましたが、またしっかりこのネタで議論します)