2014年6月26日木曜日

■ 学校は「ブラック職場」なのではなく「オワコン」なのである


 学校と教師を取り巻く環境がちょっとしたニュースになっています。



 ”ブラック企業化”する学校
 http://bylines.news.yahoo.co.jp/kawaikaoru/20140626-00036775/



 教員の労働環境が激しくブラックな件
 http://webshufu.com/teacher-black/



 多忙で自信低い、教員の現状
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140626-00000008-asahi-soci



 まあ、学校を取り巻く社会的環境は最悪で、学校の先生も何かをしでかすし、そこに通う生徒や保護者も価値を感じていない、というところは万人も納得するところでしょう。


 学校の問題、学校への不満は、いろんな言説で取り上げられます。


 少し前までは「能力不足の教師」がいるなんてキーワードが流行りました。

 「家庭のしつけの問題」とかはずっと以前から叫ばれています。

 「ゆとり教育」というシステムが槍玉に上がったこともありますね。

 「モンスターペアレント」というキーワードで、保護者側が叩かれたことも。

 「日教組が悪い」とかもよく聞きます。



 こうした言説の中で、たとえば「ゆとり路線が廃止」になったり、「教員免許更新制」になったり、ここ10年ほどで国策側もできそうなところはけっこうすばやく対応しているのですが、ぜんぜん解決になっていません。


なんでか?


 教師に問題があり、親に問題があり、子供に問題があり、サービス残業があり、校長が民間から来たり、組合がややこしかったり、部活の指導が大変だったり、少子化だったりするようないろんなことはありますが、



 結論は



「学校教育は、もはやオワコン」(終わったコンテンツ)



だということをそろそろ直視してはどうでしょうか?



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 専門的なことを言えば、「学校」というシステムは「パノプティコン」理論に基づいた「大衆監視管理システム」です。


 少ない教師という管理者が、多数の児童生徒を効率的に「教育」するためのシステムであり、そこで育つ子供達は


「一定学力、一定の能力を、全員が最低限均一に得ることができる」


という利点を持って卒業してゆきます。


 小学校でも、中学校でも、高校でも、「卒業証書」の重みはまったくどこの学校でも同じです。

 履歴書に書ける価値は同じであり、大学でさえ学位は横並び同じです。


 そして、本来学力の軽重は「システム上どこの位置の学校まで出たか」によって判定される仕組みでしたから

「高卒より大卒は給料がいい」

「大学院までいけばえらい」

「博士はすごい」

という価値感が昔は存在しました。


 ところが既に、自由主義経済真っ盛りの中で、「大学院までいくと身を滅ぼす」「ドクターを持つと悲惨」という社会になっています。


 学校はせっせと昔ながらの均一な最低保証生徒を送り出していますが、国際的でハイレベルな戦いを強いられているセカイにあって、すでに「単純労働者の生産性の高さ」なんてどうでもよくなっています。

(それはむしろ、アジア等の海外生産国において、重要視されているハナシで、既に日本国内は次のステージへと進んでいます)



 では、現代における教育はどうなっているのか。


 実はハイレベル層においては、かなり前から「私学」や「塾」「中高一貫校」などといった形で、「お金を積んで高等教育を受ける」ということが当たり前になっていました。

 それは、個別に必要な能力をゲットする、という体制を意味します。


 そういう意味では、僕ら30代後半~40代の人が経験した、「大学で座学を学び、専門学校で実学を学ぶ」という棲み分けはまだ機能していたのですが、昨今は、


「高校レベルから東大レベルまで全部ダイガク」


というわけのわからん状態になっていますから、よけい大変です。



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 基本的には、生徒も親も、すでに「現在の枠組みにおける学校」に価値を見出していません。


 学校の先生に従っても、論理的にも実質的にもなんの利益も供与してくれない、というのが今の学校です。


 学校制度に乗っかっていて、それゆえに仕事を見つけてきてくれるわけでもないし、学校制度に乗っかっていて、賃金が保証されるわけでもありません。

 ましてや、学校制度に乗っかっていることで、なんらかのステイタスを与えてくれるわけでもないのです。


 そりゃ、言うこと聞きませんね。


 「昔の学校は良かった」というノスタルジー論に立つ人も一定数いると思いますが、その人たちも今の学校を見ると首をひねると思いますよ。


 みんなで仲良く遊んだり部活をしたり、やんちゃだったけど楽しかったなあ!という人は、ちょっと今の学校を覗いてみてください。


 まず、少子化で大都市部以外の学校は、その町一番の学校でも小学校で学年2クラスとかになっています。

 ちょっと郡部へいけば、学年1クラスです。複式学級じゃないだけマシかもしれません。


 部活をしようにも単独学校では人数が集められず、別の学校や地区と合同でやっと部活が成り立ちます。


 遊具は腐ってて外で遊べないし、都会だと虫取りもできないし、夕方には女子中学生が部活して帰ろうものなら不審な車に押し込められるし、第一みんなニンテンドーDSをうつむきながら黙って覗いているのです。


 給食はアレルギーで死にかけたり、PM2.5のせいでマスク必須だったり、LINEの既読に心を奪われて生きてゆくのもままなりません。


 ノスタルジーもクソもないのが今の学校という「場」です。



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 結局、今の学校が存続している理由は


学校に変わる「ポスト学校」や「学校2.0」がまだ見つかっていないから


というだけです。


 もし、ジョブズやゲイツのような「秒速で画期的な男」が現れて、「新しい学校デバイス」を発明したなら、今の学校はガラガラと音を立てて崩れるかもしれません。



 そういう裏の状況を見据えながら、学校問題を議論してゆかないと、ただ単に


登場人物全部ダメ人間


(親、教師、管理職、生徒・学生)


となって滅びるだけです。心しておかないと。


2014年6月23日月曜日

拝啓 全ての働く女性のみなさんへ

 東洋経済オンラインに連載されている「ワーキングマザー・サバイバル」の中で、直近の3記事がとても面白かったので、ご紹介しておきます。


 ”面白かった”というのは、ある意味男性の私ですから女性にとって失礼に感じられるかもしれませんが、現代の日本における


 働く女性


がいかなる状況なのか、という意味において、誠に的を射た記事だと思っています。



 いや、もっと言い方を変えれば、現代日本における「女性」とは何か、ということを端的に示した記事かもしれません。



<1>上野千鶴子先生、東大女子は幸せですか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40336



<2>「女嫌いの女」は、幸せになれますか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40488



<3>人生の優先順位、どうつければいいですか?
  http://toyokeizai.net/articles/-/40686
 


 この3回の記事で、ほとんどすべてのことが言い尽くされているようにも思えます。


 以下骨子をまとめます。

 

 <現代前夜>

 妻は家庭に入って当たり前の時代から、「男女雇用機会均等法」によって、女性も働くことが当然に変化してゆく。


 しかし、その影には「夫が高収入だから働かなくても良かった妻」像や、「夫も経済的に厳しくなったので働き始めた妻」像が見え隠れしていることも忘れてはならない。



<働く女性の実態>

 優秀な女性は、総合職となって(男とおなじように)バリバリ働くことになったが、実はバリバリ働かされることで、心も体も疲れ果てて辞めざるを得なくなっていった。

 一般職も楽ではなく、そもそも一般職としての女性採用が減り、非正規雇用の形へと変化していったため、そのルートへ行く女性は「低賃金の貧困」予備軍となっていった。


 給与の面での上下の格差、そのどちらにおいても「女性は幸せなのか?」という問いかけが生まれている。


 結婚出産のために高い賃金ややりがいを諦めるのか、はたまた低賃金の仕事から入ったため、結婚出産をあきらめるのか。


 経済的な自立も、女性の幸せもどちらも成立し得ない社会がやってきている。



<女の敵は女という現実>

 女性同士の格差が、女同士をいっそう敵対視させる事態が起きている。

どんな仕事に就職できたかという格差。
結婚できたかできないかという格差。
どんなレベルの夫をゲットしたかという格差。
子供ができたかできないかという格差。
子供がどんなレベルに進学したかという格差。

 このすべてで敵対視が起きている。手に入れない側の者は、手に入れた側の者を妬み、手に入れた側の者も、自分が犠牲にしたものをまだ持っている側の者を妬む。


 しかし、現実はそのすべての女性が迷ったり悩んだり彷徨ったりしているということ。



<女性は何を喜びとして生きてゆけばいいのか>

 仕事、結婚、出産、育児の全てで「ある種の恐ろしい現実」が立ちはだかる中で、女性は「何をモチベーションにして生きればいいのか」という問い。

 自分が幸せになる、というのはどういうことか。


 しかし、大事なこと。人生にはすべて賞味期限がある。ということ。

 
 その中で、何を優先し、かつ「自分の道を極めることができるのか」という根源的な問いかけへ。



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 話の流れをまとめると、こういうことです。上野さんは、これは私もまったく同意見なのですが、最終的には


自分が死ぬときに「ああ、面白かった」と思えること。「私の人生悪くなかった」と思えたらいい。


という結論を挙げておられます。


 私も、いつもこれを念頭におきながら生きています。


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 ただ、この結論は脇に置いておくとしても、これらの記事の冒頭で上野さんが謝罪なさっていることが現実だと思います。


”私なりに、こんな世の中では女性が安心して子どもを産めないと、闘ってはきました。でも、あまりに微力で力が及ばず、世の中が困った方向に進むのを止められませんでした。

ですから、みなさんに、ごめんなさいと謝りたい。”


 この敗北宣言、簡単に言えばこうです。


 女性が幸せに社会参加できるようにいろいろ運動をしてきたが、結果として起きたのは「女性らしく働ける社会」ではなく「男と同様に全てを捨てて働かされる階層と貧困に貶められる階層しかいない社会」だった。

 この社会においては、安心して子供が生める社会は、成立しえない。


という現実直視の姿勢です。


 これを「何をやっても無駄なのよ」と捉えることは、ある意味必要かもしれません。戦う女性のみなさんに怒られるかもしれませんが、こうした制度設計は意図的なものです。


 男たちの意図、なのか、女たちも含めた意図なのかは別にして、大きな意図がそこにあります。


 だったら、残念ながら、「今現実に生きている女性たちが若い間は、真の意味での女性社会は到来しない」という覚悟も必要かもしれません。


 来るかどうかわからない「未来の希望に向かって」まい進し、確実に出産育児の年齢を超えてしまうことが、あなたにとって幸せでしょうか。

 未来の希望なんて捨ててしまって、「今の出産と育児を得る」女性たちと、そうでない女性たちとどちらが幸せかを考えると、悩ましいです。


 私は現実主義者ですから、

「おろかなフリをして、正義の戦いを放棄した女性のほうが、夫に付き従って妻と母としての経済的・女性的安定(出産や育児も含めて)を得ることができる」というのが今現在の

真実

に近いような気がしてなりません。いやいや、けしてこれを薦めているのではなく。


 最終的には、何が幸せかはその人が決めることですから。



 

2014年6月19日木曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その10】副業をしなさい、あなた一人で。

 新社会人となった人たちに、老婆心ながら「あんなことやこんなこと」をグチグチ言ってきたこのシリーズですが、基本的に


 今ドキの若い人にとっては、耳障りのよくない事実


をお伝えしてきた結果、かなりネガティブなことが多くなりましたので、最後くらいは明るい話題にしたいなあ、と思っております。


 というわけで、最後はこれをチョイスしました。


 副業をしよう


ということ。



 今、会社に入ったばかりなのに、本業にも集中しないで「何を言う!早見優!(古い)」な気がしなくもないですが、まあ聞いてみましょう。



 副業といっても、ふつうに皆さんがイメージすることとは少し違います。


 会社員の副業と言えば、古くは株をやって小遣いを稼いでみようとか、大きいものでは不動産投資をしてみようとか、先物取引に手を出してボロボロになってみようとか、そういうのが一般的でした。



 ちょっと現代的になると「FXをやってみよう」とか「アフィリエイトを試してみたい」とか、そんなのもあります。



 ちょっと肉体をつかうのになると、「本業の仕事が終わってコンビニで深夜バイト」とか、「24時間操業の工場の夜勤にもぐりこむ」とかもありますね。タフです。




 いろんな種類の副業がある中で、本音を言えば「どれでもいいから、やってみたらいいんじゃない?」と思います。

 本業の会社の就業規則に違反しない限りは、別にどれから手をつけてもいいと思います。


 ただ、なんと言ってもこのシリーズ記事は「社会人初心者」のための記事ですから、会社の目を盗んで起業しろ、とかあまりハイレベルなテクニックを要求するわけにはいきません。


 あくまでも「ふつうに、まっとうに、肩の力を抜いて」の副業をおすすめしています。



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 どういうことか。簡単に言えば「あなたのコンテンツを販売してみてください」ということです。


 肉体的な労働時間を切り売りするのも「コンテンツとしてのあなたの販売」と言えるかもしれません。しかし、まあ、そういうのはちょっと脇に置いといて。



 あなたの文章でもいいし、アイデアでもいいし、何か生み出したコンテンツを、ネットなどを使って販売してみる、ということがとてもよい経験になるのです。



 あなたが一から生み出した何か、それをお金に換えようとすることは、あなたが社会で生きていく中での「しっかりとしたベース」につながります。


 1000円稼ぐとはどういうことか。

 10000円稼ぐとはどういうことか。

 10万円稼ぐとはどういうことか。

 初任給で言うところの18万×12か月+ボーナスなどで、年200万~300万稼ぐとはどういうことか。


を知ってください。


 1000円は、なんとなく稼げると思います。

 10000円も、少しの努力でいけます。

 10万円くらいから怪しくなります。

 どう転んでも、年200万の副業を達成できる人は、ほんのわずかです。




 なぜ、10万円~200万円を稼ぐのはこんなに大変で、毎月お給料をもらうのは、それなりに簡単なのでしょう?


 その理由を考えるのが、この課題の本質です。


 「会社で働くということは、あなた自身が100%の割合で何かを生み出しているのではなく、もっと大きないろんな力の集合体が、たくさんのお金を生んでいるのだ」、ということに気付くべきです。



 これに気付かないと、「俺は自分でももっとやれる」と勘違いして辞めてしまったり、「俺にはもっとふさわしい仕事がある」と思ってしまったり、「俺はできる」と誤ったりするのです。



 「俺はできる」と思っていいのは、副業で最低年収以上を稼げるようになった人たちだけです。



 そして、そう思うだけでも、実はまだまだ甘ちゃんです。



 それが可能なのならば、あなたの年収は2倍です。2倍の収入を捨てて、本業の会社をやめて独立しようとするのはアホです。



 本当にできる人間は、つまり簡単。あなたの今の年収の2倍以上を副業で稼げる人間のことを言うのです。



 まあ、見てください。そんな人は、ほとんどいません。


 今じゃなくても、30代になって年収300万のところ600万でもいいし、40代になって年収500万のところ1000万でもいいでしょう。

 たしかに、自力で年収1000万稼げる人は、たしかにこれまでの仕事をやめてもOKですね。

 誰も文句言えません(笑)


 
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 すこし脱線しましたが、あなたが月15万や20万や25万円の給料を自動的にもらうためには、それが可能な「売り物」と、それが自動的に売れる「仕組みやシステム」があるから可能なのです。


 あなたに売れる「売り物(コンテンツ)」があっても、仕組みやシステムがなければそれは売れないし、仕組みがあっても「中身が薄ければ」それは売れません。


 ぜひ、そういう社会のしくみを自分で体験してみてください。



 なぜ「起業」でなくて「副業」をしろ、と言うのかは簡単です。なるべくリスクを捨てて、できるならおとなしく会社員として生きる方法も残しておかなくてはならないからです(笑)


 がんばってください。


2014年6月18日水曜日

あの国の経済が崩壊すれば、戦争が起きる

 最近、どこの国とは言いませんが、ものすごくかつての日本と同じような行動パターンを取っている国があるように思います。


 かつての日本の行動パターンとは何か。


 「産業に大きく遅れをとっていたのに、突然先進国家のように技術と経済力を身に着けた」

 「それに伴って、軍備費に過大な力をいれ、強兵策をとった」

 「いままで東洋の小国だったのに、先進国と肩を並べ始めた」



 そう、江戸時代から明治に入って、日本に訪れた大きな変化です。


 この後、日本は「日清・日露戦争」を経て軍事的には、日中戦争・太平洋戦争へと突入してゆきます。

 このことを、一般的な歴史認識では、「日本が帝国主義によって、領土拡大のために朝鮮半島や満州や中国に出て行った」と把握されていると思いますが、実は少し違います。


 簡単に言い換えてみると、この考え方は

「俺も大国とおなじように強くなったんじゃ!だから植民地もほしいんじゃ!オラオラ!」

と調子に乗って戦争に向かっていったように聞こえます。


 しかし、そういう側面よりも、もっと知っておくべきことがあります。


 それは


「戦争をはじめた当時、日本にはお金がなかった」


ということです。


 日清日露戦争というのは、「戦争の規模」から見ると小さなものです。しかし、それを判定勝ちに持ち込むために、多大な借金をしてかろうじて勝利しました。


 関東大震災により、首都は壊滅、加えて世界恐慌のあおりで日本経済もズタボロでした。

 それに連なって政治機能も失われ、政治家たちの発言力が無くなっていきました。


 
 そのため、唯一といっていいほど「ポジティブ材料」であった「日露戦争の勝利」で、軍部の発言力が大きくなっていたのが当時の日本です。


 だから、資源もなく金もないのに、「それなら外へ出て行って(金になるものを)獲りにいこう」という行動パターンになったわけです。



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 さて、わが国のお近くの某国でも、おなじような歴史が繰り返されようとしています。


 まず、前提条件から。


 「産業に大きく遅れをとっていたのに、突然先進国家のように技術と経済力を身に着けた」

 「それに伴って、軍備費に過大な力をいれ、強兵策をとった」

 「いままで東洋の比較的貧しい国だったのに、先進国と肩を並べ始めた」


 これは、明治の日本のことではないですね。そう、あの国のことです。


 ここまではかつての日本とまったく同じ。


 さあ、ではここからです。


 もし、あの国の不動産バブルが崩壊したら、どうなるでしょうか。


 国内の経済は混乱します。世界恐慌のあおり、というより世界恐慌を引き起こす引き金になる方だと言われるほどです。


 政治体制への不信が起きれば、軍部の発言力が増すでしょう。


 すでに、文民側が軍部の統制をできていないのでは?という憶測もあります。


 日本でも「満州事変」などの「きっかけは小さい事件」がいくつも起こりながら戦争へ向かっていきましたが、現在においても「尖閣事件」「戦闘機接近事件」などの小競り合いが起きています。


 日本も、朝鮮半島や東南アジアにも手を伸ばしましたが、今のあの国も「東南アジアの国」や「中央アジアの奥の方」にもいろいろ仕掛けています。



 とても、行動パターンが似ている



のです。



 もし、軍部が暴走したらどうなるでしょう。日中戦争当時の日本から学びましょう。情報統制されていた当時の日本では、マスコミの流す戦勝報告に「日本中が盛り上がりまくり」ました。


 戦争を熱狂して喜んだのは、ほかならぬ国民だったのです。



 現在のあの国も、「情報統制」されています。

 そうでなくてもマスコミの流す反日情報に「国内中が盛り上がりまくる」ことでしょう。


 戦争を熱狂して喜ぶ国民が生まれることは、必至です。



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 軍部には、単純明快な答えがあります。彼らには大きな自信と目算があるのです。


「太平洋戦争において、日本が負けた理由は簡単だ。あの国には資源がなかった。しかし、わが国には資源がある、だから結論は出ている」


と考えることは、当然だといえるのではないでしょうか。



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 さあ、もし実際に戦争が起きてしまったら、結果はどうなるかはわかりません。

 歴史に学ぶとしたら、最後は再び「太平洋全体を巻き込んだ戦争」になるかもしれません。

 また「原子爆弾」が使われるかもしれません。

 
 ただ、ひとつ言えるのは「戦争は想定外の事態ではない」ということです。



 戦争がおきることは、想定しておけ!



ということが、私たち全員への警鐘です。



 こんな記事がありました。



 【気をつけろ!人民解放軍が「中日戦争」に動き出した 中国はまず神戸から攻めてくる】
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39552


 現代ビジネスさんからの記事です。


 いろいろ考えさせられます。







2014年6月14日土曜日

■【新社会人に贈る10の金言 その9】学歴は関係する

 学歴なんて関係ない、ということばは、社会人になる前に「山ほど」聞かされてきました。

 就職活動において「学歴ではなく、その人の中身で採用したい」といった言説が流れていることも多々ありました。

 そういうことを大々的に謳って、採用活動する企業もたくさんあると思います。


 というわけで、確かに表面的には「学歴は関係ない」というポーズをこの社会は見せていることは事実です。



 しかし、はっきり言っておきます。この社会においては、学歴は関係します。


 
 もう少し、丁寧に具体的にこのことを説明したいと思います。


 まず「学歴」という言葉には2つの意味があります。社会人になるにあたって、95%ぐらいの人に関係のある「学歴」ということばは、


『高卒か、大卒か』


ということを示します。


 この意味での「学歴が関係する」とは、より具体的には「ずっと下働きの人材と見られるか、中堅リーダーまでの期待がかけられているか」という意味になります。


 残念ですが、高卒の人材に、中堅リーダーとしてのマネジメント力を企業は求めません。単純労働力として見ます。


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 しかし、世間一般でいうところの「学歴なんて関係ないですよ~」は別の意味ですね。そう、もうひとつの『学歴』ということばは


『偏差値の高い大学を出ているか、偏差値の低い大学を出ているか』


ということを示します。一般的にも「学歴」といえば、これを指します。



 昨今、企業は「一生懸命、どの大学を出たかなんて関係ない。あなたの中身で勝負してほしい」ということを盛んに言うようになりました。


 それは、たしかに、ある意味企業の本音でもあります。


 それだけ、「学力だけでなく、中身の詰まった人材がほしい」ということでもあります。これは、本当にそうなのだ、と思っていただいて大丈夫です。


 しかし、聞き間違えたり、読み間違えてはいけません。


「学力がなくて、中身の詰まった人材はあんまりいらない」


のです。「学力は、あってしかるべき」であり、「学力は、ないよりあったほうがいい」のです。


 ということは、「学歴なんて関係ない」の言葉の正しい解釈はこうです。


「勉強ばかりできて、使えないやつはいらねえ」


ということが、もう一つの企業の本音です。だ・か・ら、大学院までいくと就職に不利なのです。



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 もうひとつ、こちらは採用とは無関係の「学歴」の話をしておきましょう。


 採用後、あなたはなんとなく気付きはじめると思いますが、大きな組織の中での力関係は


「学閥のようなもの」


にも支配されていることがわかるでしょう。



 「どこそこ大学を出た人たちの、なんとなくグループがあるなあ」とか「このポジションは、どこそこ大出の人たちが占めているなあ」とか。

 そういうのが企業によって確実にあります。


 たとえば、JRという会社は、旧国鉄でしたから、「東京大学工学部土木科」卒の人間が、旧国鉄では最も偉い、というヒエラルキーがありました。

 間違っても、「東京大学法学部」の人間じゃないところがミソです。「理工学部」でもないです。


 線路を作る、ということは、そういうことなのです。そこは、偏差値ではありません。


 同じように、各企業には「企業風土」というものがあります。ベンチャーではあまり関係ないですが、大手企業や古い企業ほど、こうした体質が染み付いていて、ポジションと学閥が結びついていたりしますから、それと外れている人は、それなりの身の振り方というのがあるということです。




 公務員にも、この体質が残っています。

 一番わかりやすい例で言いますと、学校の先生ですね。


「どこそこ商業高校」とか「ほにゃらら工業高校」


という高校があるとします。その県に3つずつ、商業高校と工業高校があると想像しましょう。

 そうすると、その商業高校と工業高校の「校長先生」は、商業科を教えていた先生と工業科を教えていた先生以外なれない、というのがわかりますか?


 そうです、そのポジションは、ひいては「ほにゃらら県立商科大学」とか「どこそこ県立大学工学部」とか「なんちゃら教育大学教員養成課程工業科」とか、そういう大学の卒業生で占められているということなのです。


 普通科の高校もそうですよ。


 「なんちゃら高校英語科」とか「ほにゃらら高校理数コース」とかがある高校は、英語の先生や理科の先生が持ち回りで校長になったりします。


 逆に言えば、スーパーサイエンススクールに認定されている「ほにゃらら高校(進学校)」の校長に、書道(芸術科)の先生がなったりしたら、おかしいでしょう?


 学歴なんて関係ない、という社会は、そういう人を配置する人事をするということなのです。


 いやいや、どの大学を出たかは、めちゃくちゃ関係する、というのが事実です。














2014年6月4日水曜日

戦争が来たら都市は飢えるだろうね。

 「年収は【住むところ】で決まる」

なる本が話題になっているそうで。


 へーほーふーん。と思いながら概略をつまんでみると。


 これまでは、「労働力の確保」が大事だったので、工場がを誘致するとか作って、たくさんの人が住む「製造業シティ」みたいな感じの町がまあ出来ていたのが、これからはハイテクとかエンジニアとかイノベーション系産業がお金を稼ぎ出すので、そうした「イノベーション都市」周辺のほかの仕事の単価も高くなる傾向にある、みたいな感じでしょうか。


 ベタな例が挙がっていますが、おなじヨガのインストラクターの給与は、イノベーション都市のほうが高い、ということが示されているようです。


 まあ、同じことが多少日本でも起こっていて、都市の居酒屋のバイトの給与は1000円だけど、田舎の居酒屋のバイトの給与が850円だったりすると


「同じ仕事なのに、年収は住むところによって違う」


ということは、とりたて変ではないということになります。



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 まあ、ざっくりと、この本の言いたい事はわからんでもないです。革新的技術を生み出す企業なるものがいくつかあるとして、それらの企業は「ど田舎村」には集まりそうにないわけで。


 逆に、単純労働の工場誘致が、これまで土地の安い「ちょ田舎村」に集約されてきたことと対比すると、


 価値の高い仕事=都市

 価値のお安めな仕事=地方


となってきた実情があるのもわからんではないです。



 ただ、地方擁護論者のヨシイエとすれば、「単純にそれだけではない」とも思います。


 たしかに都市と地方では収入格差は生まれますが、支出格差も生まれています。


 特に住宅の購入などは、都市と地方では比較にならない価値格差を生んでいます。



 しかし、そんなことより、一番怖いのは


「戦争になったら都市は飢える」


「戦争になったら都市は焼かれる」


ということかもしれません。



 地震のリスクなんかの話も、これまで僕のブログでは書いてきましたが、いよいよ


「戦争を知らずに~ぼくらは生まれた~♪」


の世代は終わりを告げ、これからはどうなるかマジでわかりません。


 まあ、平和ボケな日本人には、そうなるまでわからないと思いますが、都市の脆弱さはいろんな要素があります。


 今、僕はちょい地方にいるので「ああ、なんでここの人たちが数百年もたいした被害がなく生き延びてきたのか」ということがよくわかります。

(なかなか不思議な話ですが、応仁の乱以降、ちょ田舎の村々は、たいした被害を出さずに先祖代々過ごしています)




というわけで、今日の格言。


「年収は住むところで決まる」

「安全も住むところで決まる」