2014年10月30日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書20】 自分以外はみな”バカ”である

 すべての高校生といってもいいくらい、かなりの高確率で中高生が心の中で思っている事実というのがあります。


 それは「自分以外はみなバカである」という思想・信条・イメージです。


 なぜそんなことを考えてしまうのかと言えば、ぶっちゃけて言えば「それが普通、当たり前」だからに他なりません。


 中高生にとって、今のみなさんの人生は「まだ、何者にもなっていない過程」であり、「まだ何者にもなれていない」途中の段階で大変不安定です。


 職業も決まっていないし、生き方も決まっていません。すべてが曖昧であやふやな時期であり、また「成人」といった社会的な認知もされていない時期なので、本来であれば「吹けば飛ぶような小さな存在」であることは確かです。


 その存在自体が「あやうい」状態の自分自身を維持するには、「自分がここに存在している」ということを自意識の上で確認せねばなりません。


 そこで過剰なまでの「自己肯定」というものに頼るようになるのです。




 世界の歴史を見ていると、自国があやうい立場であったり、問題を抱えている国ほど「自分の国は素晴らしい!」と過剰に宣伝したり、「自国民は優秀である!」というナショナリズムに走るようになりますが、それに似ています。


 本当に先進的な国は、自国を褒めるような言動をするのではなく、むしろ「わが国の問題点はここだ」とか「こういう部分がダメだ」とまっすぐマイナスポイントを直視しているのが普通です。


 
 
 しかし、高校生にとって「自分以外はバカである」病は避けては通れない通過儀礼のようなものですので、ここでは正しい「自分以外はバカである」病との付き合い方をまとめておきたいと思います。


 まず、「バカ」という言葉でひとくくりにしていますが、これは知識知能に関するものだけではありません。


 勉強ができる生徒は、「自分以外はみんなアホだ」と考えます。

 女子で可愛い子は、「あたし以外はみんなブスだ」と考えます。中に1人くらい「あたしを超える可愛い子」がいることは認めますが、たいていのクラスの女子より「あたしはマシ」なはずです。

 スポーツができる生徒は「あいつらはトロい」と考えるし、イケテる生徒は「あいつらはダサい」と考えるでしょう。


 その要素や項目・ジャンルはいろいろとあるかもしれませんが、たいていの場合「自分はあいつらよりも■■の部分で上に立っている」と考えることが自然なことなのです。


 

 中高生の時点で、こうした「優越感・自己肯定感」を抱くのは正常なことですから、逆にいえば、みなさんのような高校生の時点で


「自分は何一つダメだ」

とか

「あたしは全然可愛くないし、イケてない」

とか

「自分は一生童貞だろう、処女だろう」

とか

「友だちは一生できそうもない。なぜなら自分はキモいからだ」

といった感情に支配されている人は、はっきり言いますが、現時点で「病気」です。



 何がしかの発達障害を発症している可能性が高いので、早めに手を打たないと、問題の多い、苦労する人生を送る可能性もなきにしもあらずです。




 つまり、まとめておきますが、中高生の時点では、「わけもわからず、俺は偉い」と感じるのは、普通であり、むしろ健全で、それが社会に出て揉まれてゆくなかで、「そうじゃなかったんだ!俺はまだまだダメだなあ!」と思うのが正常に近い、ということです。


 そして、中高生の時点の「俺はえらい」が、最後までそのままいくと「社会生活不適合」になり、仕事をコロコロ辞めざるを得なかったり、コミュニケーションがとれなかったり、一生童貞だったりすることになる、というわけです。


 また、中高生の時点で「自分はどうしようもないキモさだ」と思っている人が、手を打たずにそのままいくと、やっぱり「社会不適合」になったり、重大な問題や事件を起こしてしまうこともある、というわけです。




 ということは、「ふつうに成長する」というこは、実はちょっと狭き門であり、道を誤ってしまう可能性は、誰にでもあるんだ、ということでもありますね。


 なまじっか勉強ができて、コミュニケーション不適合や社会不適合のまま大学や大学院まで行ってしまったりすると、もう手がつけられなくなったりするので要注意です。


 ですからここまでのお話でも、「明るく元気で爽やかにできない人」は社会においてはマズい、と口をすっぱくして言っているわけです。




 では、いったいどうすれば「普通の」「健康的な」「ヤバくない」成長を遂げることができるのでしょうか。


 一言でいえば、健全な成長とは「ものごとを捉えるモノサシ・基準が”主観”から”客観”に変わってゆく」ということに他なりません。


 こどもというのは、自分の世界観の中で「僕はなんでもできる、一人で歩けるし、おねしょもしないし、ごはんも食べられる」という万能感に支配されています。


 それから小学校・中学校・高校へと進む中で「できること」が積み重ねられてゆくので、基本的に「俺は賢くて、みんなはバカだ」という世界観が形成されるのです。


 ところが、大人になってゆくと、自己の限界に気付き始めます。いろいろなジャンルや要素で、「自分より賢いヤツ」「自分より明らかにカッコいいやつ」「自分よりできるやつ」に出会ったり、自分自身のスコアが伸びなくなったりして、


「あれ?これはなんか様子が変だぞ?おかしいぞ?」


と思い始めるのです。


 そこから、「他者の基準で自分を判定する」という客観性が備わりはじめ、社会全体の中での自分のポジショニングを考えるようになるわけです。


 そうした一連の「自分の視点からの脱却」が確率するのが、高校時代だと言ってもよいでしょう。


 特に、女子の場合は中学生まではすべての心身の発達が男子に先行していますので、高校で男女の能力差が逆転します。


 学力や体力面でも、いままで「できる子」とされていた女子が、急に「ふつうのレベル」になってしまい、「子供っぽかった」男子が、急に「大人びてくる」のが、高校3年間だと言うわけなのです。




 最後に、現時点で「自己肯定感」が得られていない人(自分はダメだと思い込んでいる人)へのアドバイスですが、たいていの場合、それは「何者かによってそう思い込まされるような事象に支配されている」ことが多いので、その解決を急がねばなりません。


 こじらせる前に、適切なサポーターに「助けてほしいこと」を意思表示しなくてはいけないと思います。自分ひとりで解決できることは、まずありません。


 なぜなら、あなたが今持っている「モノサシそのもの」の目盛りや基準がすでに正しいものではないからです。


 まちがったモノサシをなんど当てて測っても、正しい数字はけして出てきません。



 

2014年10月26日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書19】 友だち付き合いは、難しい

 さて、前回は「友だち・知り合い・人間関係」の根っこの部分についてお話しましたが、みなさんは日々学校生活を送っている中で、友だち付き合いについて心を悩ませていることと思います。


 どんな問題が起きているか、どんな悩みがあるのかは、私は知りません。はっきり言いますが、全ての人が多用な問題を抱えているので、それぞれ個別の出来事については、すべて解決するような方法はないからです。


 しかし、誰にでも通用する大きなヒントがいくつかあります。それはあなたの人生を・人生観を大きく変えるヒントになるはずです。




 ① 正義を捨てなさい。そうすれば、あなたは幸せになれます。


  正義を捨てる、という言い方をすると「じゃあ、悪になれというのか」と思ってしまいがちですが、そうではありません。「これが正しい」とか「これが良い」とか「こうすべきだ」という「正義・善」の感覚を、一旦


「保留」


するくせをつければ、あなたの人生や友だち付き合いは、かなり楽になると思います。



 ものすごくわかりやすい例をお話しましょう。あなたのクラスに、ある生徒がいて、彼か彼女かは、クラスの中で友だちのものを盗んだとしましょう。


 そう、クラスの中で窃盗事件を起こしたのです。


 あなたや、クラスの人たちはどのように彼・彼女に接するべきでしょうか。




 ・・・これも結論を先に言いますが、「わかりません」。正解はありません。彼・彼女に窃盗癖があるのであれば、あなたも彼がいる空間では持ち物に気をつけなくてはなりません。

 心から彼・彼女と笑いあうことはもうできないでしょう。

 
 彼や彼女をどういう形であれ、クラス全員が距離を置くことになりますが、それは「いじめ」とどこが違うのでしょうか?


 「悪いことを起こしたものは、多少いじめられても(排除・距離を置かれても)仕方ない」と考える人もいます。


 では、「掃除をサボったからあいつはいじめていい」「悪口を言ったらしいからあいつはいじめていい」ということですね?


 すべての「いじめ」はそのように「彼・彼女のささいな悪」をことさらに取り上げながら進行してゆきます。


 さあ、「窃盗したクラスメイトは、いじめていいのか、いけないのか」どっちなんだ!


 ・・・これはとても難しいことで、「いじめはいけない」という善悪と「窃盗はいけない」という善悪はこんな風にすぐに矛盾を起こすのです。




 学校現場では、こうした事例が起こると、多くの場合、彼や彼女を転校させることで解決を図ります。前回「土地を離れれば人間関係はリセットできる」という話をしましたが、その手を学校が使うわけです。


 あなたの学校という物理的空間から、彼や彼女を移動させることで、別の土地でやり直すことができる、というわけです。


 それはともかく、ここから学べる事柄は「善悪」という判断を一旦保留して、いろいろな角度で物事を見よう、ということです。


 「あいつが何々したから嫌いだ」とか、「誰それに何々された」という状況を、あなたの目線だけでなく、別の目線でも考えてみることが、大切だと思います。






② プライドをコントロールしなさい。そうすればあなたは幸せになれます。


 中学生・高校生にとって、もっと大きな壁・試練はこれだと思います。大人になると、自分の人生における「立ち位置とかレベル・ランク・身分」といったものはなんとなくわかるようになるので、しょーもないプライドからは自由になれることが多いのですが、中高生のうちは、まだまだ「わけのわからないプライド」に包まれています。


 面白いことに、これはヒトに生物学的に埋め込まれた「本能」のようなものらしく、これをコントロールするのは、とても難しいことではあるかもしれません。



 私が1歳の小さな赤ん坊を観察していると、面白いことに1歳児にも「なんだかわけのわからないプライド」があるらしく、


「親が1歳児に対して『ダメ』と制止すると、逆切れして怒る」

とか

「きょうだいが、1歳児の持っていたものを取ろうとすると、切れて怒る」

とか



そういう行動がしょっちゅう見られます。1歳児は


「ボクは、まだまだひよっこでダメ人間ですから、みなさんのおっしゃるとおりにいたします」


なんてことは全く考えず、いっちょまえに激怒するのです。(ちなみに激怒を通り越すと泣き出します)




 面白いですよね?赤ちゃんの時から、「自分の領域を否定されたり、非難されるとヒトは怒る」のです。


 そういうことが、あなたの「プライド」を形成してゆき、今の状態になっています。


 中高生のすごいところは、(赤ちゃんもそうなのですが)「今、自分がどのレベルにあって、どういう状況でそうなっているのか」について、考えないところです。ある意味、そうしたことを考えないがために、人生は豊かに生きることができるのですが、逆にそれがあなたを苦しめることになります。



 もし、プライドがなければ、高校生は


「ははーっ、いつもご飯をタダで提供いただき、家も服も与えていただいで誠にありがたき幸せ!この恩を一生忘れず、ご両親さまのために身を粉にして勉強する所存であります!どうか私を、このセケンの荒波に投げ出したりせず、せめてあと3年くらいは暖房も冷房も、部活のユニフォームも、マンガも提供いただきますよう、心からお願い申し上げます」


というキモチになるはずです。でも、そんなのはおかしいですよね?


 そう、「俺は親に無償で全てを提供されても当たり前なんじゃい!」という、わけのわからないプライドがあるからこそ、子供はこどもらしくのびのびと成長できるわけです。




 大人になると、上のセリフを毎日実行しなくてはいけません。


「会社に毎日遅刻せずに行くのは、ありがたい給料をいただくため」


「取引先に頭を下げて怒鳴られても耐えるのも、ありがたい給料をいただくため」


です。誰1人として、「会社はタダで俺に給料を提供すべきだ」と思っている人はいません。




 ということは、「プライド」をコントロールできるようになれば、人間関係もかなり良くなるはずだと思いませんか?


 「いじめられてても、親に言えない」のは、プライドのせいです。


「親方様!敵が、敵が攻めて参りました!当方はすでにズダボロでございます!援軍を!援軍を出してください!」


と叫んでいる戦国武将を想像してみてください。別に何もおかしくないですよね?やられているので、大名に助けを求めているだけです。


 でも、


「うーむ、すでに当軍は兵糧を奪い去られ(カツアゲ)、すでに兵の大半が戦死(殴られた)したか・・・。でも、親方様には言えない」


というのが「いじめられて黙っている人の心理」です。変ですね?どうして、やられていることを親方様に報告できないのか。


 そこが「わけのわからんプライド」というもののやっかいさ、なのです。「いじめられているなんて状況を認めたくない」という心理、自分が「負けているということを認めたくない」心理が邪魔をするのです。


  武将になってみましょう。


「うぬぬ、敵が優勢とは!しかし、しかしまだこのわしは戦えるんじゃ!半数が戦死?いやいや、残りの者すべてで最後まで撃って出るのじゃ!」


という状況が、いじめを黙っている人の心理と同じです。武将は意地(プライド)だけで戦おうとしているのです。討ち死にする確率が高いのに。


 

 まあ、ざっくりと説明しましたが、「プライド」はやっかいなものです。それを適切にコントロールして、「自信を持ちながら、かつ自意識過剰にならない」ということは、難問には違いありません。


 しかし、それを無事に成し遂げたときに、人生は豊かになるのかもしれません。








2014年10月25日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書18】第四章 友だちを巡る諸問題

 学校生活だけでなく、これからのあなたの人生において、いい意味でも悪い意味でも大きなウエイトを占めるに違いない、


「ともだち」


を巡るたくさんの事象について、この章ではお話をしておきたいと思います。


 一般論として、友だちや友人、仲間、知り合いと親しく仲良くすることは、大切なことだと信じられていますし、またそのように多くの人は行動しています。


 しかし、また一方で、友だちや友人、知り合いというもののせいで、大小のトラブルに巻き込まれたり、人間関係に色々な「こじれ」を生じさせることがあるのも事実です。


 では、高校生活・またその先の社会生活において、「他者との関わり」をどのように過ごしてゆけば、人生は豊かになるのでしょうか。




 いつものように、世代を見ながら話をしてゆこうと思いますが、あなたのお父さん・おじいさん・ひいおじいさんを含めた4世代に渡って、あなたの先輩たちはほぼ似たような「友だちづきあい」をしてきました。


 また、一番最初にお話した「土地を持っているか・いないか」が、人間関係にも大いに影響していることも、覚えておきたいと思います。



 あなたのお父さんや、おじいさんや、ひいおじいさんが「主に長男の家系で、土地を持っていて、ずっと地元に根ざして生活していた場合」には、人間関係は小学校・中学校・高校・大学・そして社会人のすべてにおいて


「地元で連続した友だち関係を維持する」


ことになります。わかりやすく言い換えれば、小学校のときの「友だち」が、大人になっても近くに住んでいるとか、同級生の知り合いが、そこらじゅうにいる、という状況が死ぬまで続くということです。


 あなたのお父さんやおじいさん、ひいおじいさんの生き方を思い出してください。今お話したように常に地元で生活している人は、多かれ少なかれ「難しい問題や、不条理なことがあっても、基本的に事を荒げずに、和睦しながら生活している」ことが多いはずです。


 たとえば、地域に問題があったりしたときに、あなたのお父さんだけが「猛烈に反対」とか「猛烈に主張」とかをしているならば、すでにあなたも気付いている通り、あなたの家族は地域で「浮いている」存在になっているはずです。


 しかし、こうした状況になっている人はごくごく一部で、おじいさんやひいおじいさんの代からその土地に住んでいる人は、「なんとなく平和主義で、なんとなく自己主張がなく、なんとなく頼りない」くらいの暮らしぶりにならざるを得ません。


 それは、そういう生き方をして、「ずっと同じ場所に長年生活している友達や知り合いの軋轢」が生まれないように調整しているからです。


 地元の企業に勤めている友達や知り合い、地元の市役所に勤めている友達や知り合い、地元で農家をしている友達や知り合い、といった


「その地域を中心とした、人間関係」


がある限り、それを維持するためには、全体的に和睦していなければいけないからです。




 それに対して、「土地がないので、別の地域に出て行った」人たちもたくさんいます。日本型社会では、先祖の土地は「長男が全部相続する」というスタイルが一般的ですので、次男以降は別の土地へでてゆかざるを得ない場合が大半で、また女性はどこかへお嫁に行ってしまい、これまた元の家には住んでいないことが多いわけです。


 そのため、「友だち」の話で言えば、これらの人生を送る人たちは「友だち・知り合い」が、実際には途切れ途切れで限られた期間だけであることが多いのです。


 小学校・中学校くらいまでは、みなが同じ地域で暮らしていますが、中には中学校から私立の学校にいく友だちがいたりして、変動があります。高校になるとその地域の領域が広くなり、大学では完全に別々の人生を歩むことになります。


 社会人になるころには、小学校時代の友達は、ほぼ大半がてんでバラバラの地域に住んでいることになります。


 こういう人生を送ると、学生時代の友達なんてものは「同窓会で10年ごとに会えるか会えないか」とか「そもそも、あいつどうなったか誰も知らない」という状況になりますので、あなたがこの高校3年間で付き合う友だち・知り合いも基本的には「3年間限定の付き合い」だということになるでしょう。


 人間関係に問題を抱えている人は、「3年過ぎればおさらばだぜ」と思って大丈夫だし、友だち付き合いを大切にしている人は「3年しか一緒にいられないのだから大事に過ごそう」と思って大丈夫です。


 繰り返しますが、あなたの友だち付き合いは、基本3年後にはリセットされるわけです。




 私も、親が土地を持っていなかったために、外の地域に出てゆく人生を選び・選ばされました。ですので、小学校の時の友だちで、現在でも交流があるのは


「たった一人」


です。

 中学・高校時代の友達・知り合いについては、「どこで何をしているのかさっぱりわからない」状態です。


 それは、私自身が、生まれ育った土地と異なる土地にいるからです。



 

 以前の章で、学校はRPGのようなものだとお話しましたが、高校生のあなたにとって、「友だちづきあい・人付き合い」は、もし万一うまく行かなくても、数年後にはリセットできることを覚えておきましょう。


 ただし、ずっとその土地で生活し続けなくてはいけない人は、その限りではありません。あなたがその土地で人生を過ごす限り、その周囲の人間関係もずっと継続します。ですから、嫌でも、周囲と「良好な人間関係を築く」努力を強いられることになります。


 はっきり言っておきます。それは「土地のせい」です。あなたがその生活を強いられるのは「土地のせい」なのです。


 ですから、裏ワザですが、あなたがその土地を離れれば、「あなたが受けている苦しみ」の多くは解決します。


 人間関係をリセットするには、その土地を離れることが一番の解決方法なのです。



2014年10月23日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書17】あなたの進路の選び方

 この章では、高校生にとっての「学校」に関するお話を集めながらまとめてきましたが、最後に「進路」について説明しておきたいと思います。


 戦前までの日本人の「学生から卒業しての進路」については、個人の意見よりも「親の意見」や「家の仕事」など、ある程度他の人から指針を示され、それに従ってゆく人生を選ぶ人が多かったのですが、現在はそうではありません。


 世代で言えば、あなたのおじいさんぐらいの世代から(つまり、戦後生まれの世代から)、「自由に仕事や進路を選んでもいいよ」と言われることが多くなり、またそのように人生を送ってきた人が増加しました。


 みなさんの世代では「自分が何になりたいか」を考えることは、当たり前のことであるかのような教育を受けてきたと思います。「何になれるか」は誰にもわからないのですが、とりあえず「何になりたいか、という希望くらいは、聞いてもらえる」ようになりました。




 高校生活の3年間で、人はみな「何になりたいか、そのためにどんな進路を選べばよいのか」というチョイスをさせられるようになります。早い人だと、商業高校や工業高校などに入学することで、すでにおおまかなチョイスを済ませている人もいるでしょう。


 そのとき、将来の「職業別」で進路を決定させることが、これまで多くの学校で行われてきました。「家を建てる建築家になりたいので、そういう大学や学校に行く」とか、「弁護士や検事を目指して、法学部に行く」とか、「音楽で食べてゆきたいので、芸術の学校に行く」とか、そういう選択方法です。


 それも一つのチョイスの方法ですが、みなさんに知っておいてほしいのは、上のような「職業」の希望で進路を選ぶ時代は、そろそろ破綻するということです。


 職業を選ぶことができるというのは、「どの職業に行っても、とりあえずお金をある程度稼ぐことができる」という前提に立っています。平たく言えば、まあ食っていける、ということです。


 ところが、既にそうなりつつありますが、「お金を稼ぐこと」と「職業選択」がいろいろな意味で合致しなくなってきているので、考え方を改めなくてはいけなくなっているのです。



「弁護士」でも食える人と食えない人が出てきている。「大学の先生」でも貧富の差が激しい。「音楽で食べて行ける」のは、ほんのほんの一握り。
 おなじ労働をしていても、正社員と派遣では、給与も待遇も違う。などなど。




 そのため、みなさんが大人になる頃には、「どんな仕事をしているか」ということと同時に、「今、そして未来に食えているか、食えるのか」ということが重要になっていると断言できます。


 つまり、発想を大きく変えて、「自分は食っていくために、どうするのか」ということを、早いうちから考える必要があるというわけです。


 食える音楽家になるにはどうしたらいいのか。

 食えるサラリーマンになるにはどうしたらいいのか。

 食えるためには、どの道へいけばいいのか。


 たとえば、音楽家で考えてみます。
 食える音楽家になるには、もしかしたら今ネットで何か曲を発表してみることがスタートになるかもしれません。
 日本中のオーケストラの団員が何人くらいで、あなたはせめて全国の楽器奏者のうち「何番」くらいになれば雇ってもらえそうか調べておくのも悪くないでしょう。
 音楽の先生になるか、あるいは音楽教室の先生になって食っていくのか。それにはどれくらいの「イス取りゲームのイスがあるのか」を知っておくとよいでしょう。
 

 もっともっと調べるべきことはありそうですね。つまり、こういうことです。「進路」とは大学を選ぶことではなく、大学卒業後の出口と、あなたが死ぬまでの食べていく方法を考えることでもあるのです。


 個人的な話をすれば、私が高校の時「なりたかった職業」は、現在では食べてゆける職業ではなくなっています。ですから、私はその仕事についていません。


 もちろん、ほんの一握りの人は、その職業で食べていっていますが、食べてゆける人数の順位に、私のレベルではなかなか入れないことも、気付いてしまいました(苦笑)


 なので、私は、まったく違う分野の仕事を本業にして、副業で「なりたかった仕事」をしています。

 お金を稼ぐ金額は、本業とは雲泥の差がありますが、副業のほうの「なりたかった仕事」は半分趣味と実益を兼ねてやっていますので「やりたかった仕事」ができてとても嬉しい気持ちです。


 ただ、嬉しい気持ちだけでは、私もあなたも食べてゆけないのです。残念ながら。


 私は、いくつもの名前を使い分けて活動していますので、本業以外にそうした「副業」のようなものをたくさん同時にやっています。吉家孝太郎、という名前はそのうちのたった一つです。




 そういう意味では、みなさんの人生はちょっと明るい希望に満ちているかもしれません。「職業」と「食べてゆくこと」が切り離れている生活が当たり前になれば、あなたは「なりたかった仕事」「やりたかった仕事」を(本業ではなく)、自由にチョイスできるようになることでもあるからです。


 多岐に渡る仕事の内容を、それぞれの分野で時間を分けて関わることができるならば、それは幸せなことかもしれません。


 本業はサラリーマンで、趣味で絵を書いていてそれがネットでお金になったり、あるいは依頼されてイラストを書いて報酬をもらう、とかそういうことは既に当たり前になりつつあります。


 私の知っているある人は、ふだんは鬼瓦を作るメーカーで働いていて、別に個人としてアニメのフィギュアの原型を作って東京の会社に提供している人がいます。


 彼なんかは、いちおう同じジャンルで活動しているほうですが、別にジャンルが違っていても全然かまわないわけです。


 私は今このブログなど、文筆を中心にこの名前では活動していますが、別の名前では音楽家でもあります。




 3年間という長いようで短い期間に、ぜひあなたの進路のその先で「食べてゆく方法」を考えてみてください。時間はたっぷりありますが、あっという間にその日はやってきます。
 

 

 追伸:女性のみなさんへ


 女性の場合は、以前にもお話しましたが20代から30代の約10年~15年の間という短い期間に、妊娠と出産をどうするのか、ということが大きく関わります。


 ですので、あなたの進路のその先に、「結婚はしてもしなくてもいいけれど、妊娠と出産はどうスケジュールに組み込むか」をずっと頭の片隅に置いておくことが重要です。


 こどもの世話をするのは、男性にもできますが、妊娠と出産は女性にしかできません。ですから子育てのことはパートナーと協力するにしても、安全で健康的に妊娠できる期間については、忘れてはいけないことです。



 ですから重ねて言いますが、女性のみなさんにとっても「なりたい職業」も大切ですが、「自分がどう生きて、妊娠出産の期間の前にどんな仕事に就くのか、そして子育て後にどんな仕事をするのか」という長いスパンの目線が必要なのです。



 現代を生きている女性で、「どんな仕事に就くのか、どんな仕事をするのか」だけを見て職業選択をしてしまい、妊娠と出産の適齢期を逃して後悔している方がたくさんいます。


 彼女たちは、当時このブログを見られなかったし、誰もそんなアドバイスをしてくれなかったので、そうなってしまいました。


 みなさんには、事前に警告することができます。妊娠と出産をどうしたいか、はとても大切なテーマです。


 後で後悔するくらいなら、今のうちに考えておくと良いと思います。

2014年10月22日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書16】自由とは何か

 みなさんは、今の家庭や学校での生活を「息苦しい」と感じているでしょうか?それとも、「気楽でいい」と感じているでしょうか?


 古い話で恐縮ですが、私が中学生や高校生のころは、学校における制服の既定などがしっかり定められていて、いわゆる「校則」が厳しく運用されていました。

 もっと古い話をすれば、私が住んでいたとある地域では、「中学生男子は全員丸刈り」が強制されていて、私のひとつ年上の先輩までは、全員丸刈りでした。私の代から「長髪が解禁」された、なんてことがあったのです。


 他にも女の子であれば、スカートは膝頭から何センチの範囲に収まってなくてはいけない、とかそんなルールもありました。持ってよいカバンの種類まで決められていたように思います。


 そうした規則やルールを「厳しい・堅苦しい」と思うのは自然なことです。誰もが、そうしたがんじがらめのルールに対して「息苦しい」と思うことでしょう。



 自由とは何か。これは若者が人生で一度は考える悩みの一つです。学校だけでなく、家庭の中でや、親に対しても「自由が欲しい」と感じる場面がたくさんあることでしょう。




 というわけで、今回は「そもそも自由ってなんだ?」というお話です。


 歴史的な「自由の定義」はともかく、現代における自由とは、ひとことで言えば「自分の意思で何かを決定し、行動できること」とされています。


 ということは、あなたは自由ではありませんね(苦笑)。今日のお昼のお弁当は、お母さんの作ってくれたお弁当の中身に束縛されていますから、自由ではありません。今日の授業の時間割が決まっていますから自由ではありません。放課後には部活動が待っています。自由ではないのです。


 会社員である私は、会社にいかなくてはいけないので、自由ではないし、電気ガス水道代を払わなくてはいけないので、自由ではありません。


 現代社会に暮らしている以上、真の意味で自由な人がいるとしたら、「野山にあるものを勝手に食べたい時に採集して食べ、寝たいときに大地に寝て、誰がなんと言おうとそこらへんで用を足し、お金をまったく使用せずに暮らすことが出来る人」ということになります。


 もう、なんか、ホームレスとかそういうのを飛び越えて「野人」いや、もういっそ「野獣」な人だといわざるを得ません(笑)


 というわけで、私たちが普段考えている「自由」ということの大半は、ある部分だけを自分にとって都合よく考えた「自由」だということになります。


 人生を自由に生きたい、というのは、お金は支払わなくてはいけないけれど、できればたくさんお金を持っていることでそれを感じなくしたい、とか、今日のお昼ご飯は、自分で決めたい、とかそういうことです。


 お昼ごはんくらいは、かなり自由ですよ。お母さんが持たせてくれたお弁当を野山に投げ捨ててしまいましょう。「お弁当からの束縛から脱出」するのです。あなたの昼食のメニューは、なんと自由なことでしょう!


 盗んだバイクで走り出す必要もなく、「自由になれた気がした、15の昼」です。



 よく、一般的には「自由の権利を主張したい場合には義務を果たさなくてはならない」みたいな堅苦しいことを言う人がいますが、私はそんなしょーもないことは言いません。


 なんてったって自由なのですから、義務なんて果たしません。義務からも自由でありたいわけです。人は。


 だから、お弁当から自由になるために、もうお弁当は食べないのです。お金から自由なので、お金は持っていないのです。ただ、おなかをすかせた、自由な私がそこにたたずんでいます。お腹をすかせながら(笑)



 現実社会をよく見ると、「自由の権利と義務」がセットになっているというのは、ちょっとウソで、実は「自由と保護」が一体になっているということがわかってきます。


 お弁当が決まっているということは、お弁当が与えられているという保護があなたには与えられている、と考えてください。


 お弁当が自由だということは、お弁当をそもそも持たせてもらっていない、(ほっとかれている)ということだと、気付くのがポイントです。



 制服が決まっているということは、あなたには「制服が与えられている」ということです。着るものがまったくない貧しい状態ではない、ということがわかります。


 親によって進路が決められているということは、親がその道を選ぶことを保証してくれているということになります。「好きにすれば?どうでもいいし」と言われるより、よっぽど愛されています。


 自由ではない、ということの裏には「かならず保護」が隠れているのが、この世界です。


 
 もう少し、社会的な例を考えてみましょう。


 信号のルールが定まっておらず、自由に通行してよいとすれば、車にぶつかってはねられたら、「はねたヤツが悪い」か「はねられたヤツが悪い」かのどちらかに自然に決定されます。


 はねられたヤツがもし死んでしまったら、生きてる方がどう頑張っても勝ちですね。死に損です。


 これが自由な社会で、自由なゆえに誰もあなたを守ってくれません。


 ところが、信号というルールがあることで、(制限があることで)、信号無視したほうが悪いんだという決まりができ、それに従って結果が判定されるようになります。


 悪いほうが相手をしなせた場合は、刑罰という報いを受けることになります。自由だったら、刑罰もありません。だって自由なんだもの!イエイ!


 
 人は職業選択の自由も持っているし、居住の自由も持っています。なので、今日家に帰ったら、山田があなたの部屋に居座っていて、そこから動かない自由を発揮しているかもしれません。


 それはたいへん困ると思います。


 なので、国家は「住居侵入罪」という制限をわざわざ作って、山田がどこに住んでもいい自由をあえて制限しているのです。


 あなたは自由でないことの見返りに、安心して自分の部屋で過ごせるという保護を受けています。




 こうしたことから言えるのは、あなたが何か「保護して欲しい」「権利を守ってほしい」と思うことがあれば、多少「自由が制限される」ということと抱き合わせであることを納得しなければなりません。


 それを納得できない人は、この世界では排除されることになっています。だから、他人の部屋の真ん中で放尿する人は自由を制限されるし、他人の夕食を勝手に食べる人は自由を制限されるのです。




 もちろん、こういう例え話をしていると、「でも、他人に迷惑かけなきゃいいじゃん」と言う人がかならず出てきますね。


 「靴のかかとを踏んでいたり、シャツの裾が出ていたり、腰パンでもだれにも迷惑かけてないじゃん」


と主張する人がいるでしょう。なんてったって自由なんですから。


 というわけで、明日から、校長先生は黒塗りのベンツで学校に来て、毛皮のコートを身にまとったミニスカの保健の先生といちゃつきながら朝礼を行うことにします。自由だし。


 教科の先生は、東進ハイスクールの映像授業をテレビで流して、自分は静かに50分間黙っていることにします。


 生徒指導の先生は、タバコを販売してくれることになりました。


 音楽の先生は、XJapanのドラムを実演してくれます。毎時間。



 ・・・誰にも迷惑をかけていないかもしれませんが、どうもこれではマズイらしいことは想像がつきますね。


 そう、学校の先生がそれらをしないのは、みなさんの学力が一定程度になるように、国から指令を受けて「これこれ、こういう内容のことを授業でやりなさい」とか「こういうことは、してはいけない」と制限されることで、みなさんの学力を保護しているのです。


 皆さんを保護するという意味では、「シャツ出し腰パン禁止」も同じです。


「あそこの学校の子、やあねえ、あんな格好して」


と周囲の人たちから後ろゆびさされないように、保護されるためには必要なことのようです(笑)


 なので、どうしても腰パン・シャツ出し、茶髪にしたい人は、学校を辞めたら自由になれます。実際にそうして高校を中退する人は山ほどいます。仲間ですね。


 しかし、その時は自由になれたかもしれませんが、その後は自由であるかどうかはわかりません。なんといっても「高校生」という保護された環境からほったらかしにされるわけですから、もしかしたらかなり不自由な生活が待っているかもしれません。




 タバコを吸えるのは大人になってからですが、大人になったら犯罪時に名前を出されてしまいます。

 お酒を飲めるのは20歳になってからですが、20歳になったら少年法で守られません。


 ね?自由と保護は、ちょっと関係あるでしょう?




 この自由と保護のお話は、もっと本格的なことや重たい話がいろいろあるのですが、今日はこれくらいにしておきましょう。より詳しいことが知りたい場合は「新自由主義」とか「規制緩和」といったことばをググってみてください。


 政治や経済の社会の中で「自由と保護」がどのように関わっているかの重たい事例がたくさん見つかると思います。


 


 
 



2014年10月21日火曜日

【高校生のための”人生”の教科書15】学校はRPGである

 今回は、いわゆる机に座ってするような「お勉強」とはちがう話をしたいと思います。


 みなさんは高校生で、これから大学まで進学するかもしれませんが、「学校」という枠組みの中で、一番身に着けておかなくてはいけないことは、知識のほかにたくさんあると思うので、その話をします。


 私は学校というのは「RPG(ロールプレイングゲーム)」のようなものだと思っています。


 特に、集団における人間関係やコミュニケーションにおいて、「学校生活」で、あなたは経験値を増やさなくてはいけません。学校はそれを身に着ける、よき修行の場です。



 現代の学校には、いろいろな問題が渦巻いています。「スクールカースト」という”立ち位置”の問題や、「いじめ」、「便所飯」のような1人ぼっち問題など、人間関係に関するありとあらゆる悩みが、そこに現れています。



 いいですか?大事なことなので書いておきますが、これらのあなたをとりまく問題を解決できなかったり、こじらせたりすると、それはあなたの人生を一生悪い方向に引きずることになります。


 いくら勉強ができても、スポーツができても、人間関係をマスターしなければ、就職してもダメです。何をしてもダメなんです。



 こんな恐ろしいことを話していると、すでにガクブルかもしれませんが、幸せなことにあなたにはチャンスがいくつかあります。


 小学校・中学校・高校・大学などの最低4回のストーリーをプレイすることができるので、あなたには3回分のリセットボタンが与えられていると思ってください。


 学校を変わるごとに、うまく行けば学校生活というRPGをやり直せるチャンスがあるのも事実です。ですから、失敗してもその回数まではなんとかなります。




 では、学校生活のRPGの中で、「何を」身に着ければいいのでしょう。学校生活における「経験値」とは、何が大切だというのでしょうか。


 まず、大切なのは「明るく他者とコミュニケーションがとれること」です。これは基本中の基本です。


 宝塚歌劇の「清く正しく美しく」ではありませんが「明るく元気でさわやか」であることは、人生における必須経験値です。


 これが学生生活の間に身に付いていないと、社会に出たときに苦労します。ほんとうに苦労します。繰り返しますが、死にそうです。


 アホでもいいし、ダメ人間でも「明るく元気でさわやか」であれば、許されることがたくさんあります。ちょっとずるい感じもしますが、それくらいに「明るく元気でさわやか」なことは、魔法のアイテムなのです。


 では「暗くてひ弱でいじけている」人は、どうしたらいいのでしょう。一刻も早く、その真逆になるよう努力すべきです。学力の勉強なんてしなくていいです。そんなのなくても、「明るく元気でさわやか」であればなんとかなるからです。


 正直にお話しますが、これまで「暗くてひ弱でいじけている人」は、もしかしたらあなたもそうかもしれませんが、それを修正するのが嫌で、

「楽な方に逃げている、つまり勉強をすればいい、勉強ができればそれでも許されるだろう」

と「明るく元気でさわやかになることから逃げていた」ことでしょう。




 それはいけません。それは逃げているだけです。勉強はたしかに、孤独でネガティブで一人ぼっちでもできます。そして、これまでの日本社会はそれでもなんとかなりましたが、もうそれもおしまいです。残念。



 「引きこもり」であるとか「ニート」であるとか、そうした人たちが社会問題になっていますが、彼らのうち多くの人は、学力も学歴もあり、そして保護者がお金を持っています。


 いろいろ「もってる」ものがたくさんあるのに、彼らは社会に適合できません。それは、人間関係・コミュニケーションの訓練をおろそかにしてきたからに他なりません。いや、おろそかにしてきたというよりも、その苦しい修行から「逃げてきた」からに他ならないのです。


 親がお金を持っているせいで、「逃げていてもなんとかなった」側面もあります。



 しかし、その親たちは、いよいよ本人たちが死んでしまったり、お金が尽きたりするような状況になってきました。大変です。引きこもりやニートは「自分でお金を稼ぐ力」がありません。



 ・・・とまあ、少し強い口調で書きましたが、私は「引きこもりやニート」を馬鹿にしているわけでも、敵視しているわけでもありません。とても可哀想だと思うし、「ああ、リセットボタンを使い果たしてしまったんだな」と悲しいキモチになることも事実です。


 だからこそ、これを読んでいるみなさんには、できればその生き方を避けてほしいと思っています。




 どうして人間関係・コミュニケーションが重要なのでしょうか?それは、人が生きていく上で、あなたが何かサービスを受ける上でも、とても避けては通れないものだからです。


 「美女と野獣」の物語のように、あなたが人を避ければ、人もあなたを避けます。あなたが笑わなければ、誰があなたに微笑んでくれるでしょうか?


 お金がある間は、あなたにサービスをしてくれる人がいるでしょう。しかし、お金がなくなっても、誰かがあなたを気にかけてくれるとすれば、それはあなたが気にかけてきた相手だけなのです。




 もうひとつ、あなたにとっては嫌な話をします。人間関係が苦手で、コミュニケーションが苦手な人は、一見「自分はネガティブでダメだ」と思っていますが、その心の奥底で「自尊心・プライド」がとても高く、「他人はアホで馬鹿だ」と思っていることがかなりの高確率で多いです。


 自分のプライドや自尊心が高いあまりに、「他人に対してへりくだったり、下に見られたり、道化を演じることができない」のです。



 もし、あなたがコミュニケーションができずに苦しい人生を送ることになるのならば、それは、あなたが捨てられなかった「自尊心やプライド」の仕返しだと思ってください。



 なぜ、これほどまでに私が強く言うのか。それは、すべての「明るく元気でさわやかな」大人たちは、苦しいこと、自尊心をつぶされる事、プライドを引き裂かれるようなことがあっても、それを隠したり乗り越えたりしながら


 「顔で笑って心で泣いて」


いるから「明るく元気でさわやか」に見えるというのが真実だからです。



 大人になる。社会で生きていくというのはそういう側面もあります。




 






 

2014年10月20日月曜日

【高校生のための”人生”の教科書14】高校で何を学ぶか、大学で何を学ぶか

 前回は、勉強=学ぶことの基本的な意味についてお話しました。

 それはまず、


 「勉強というのは、最終的に楽をするためのものだ」


ということが第一段階で、


 「勉強で得た知識を、どう生かすか」


ということが第二段階であることを確認したと思います。




 この、一見あたりまえなことが、意外とうまくいかないのが多くの人の人生です。


 勉強がよく出来て、知識がしっかりあって、偏差値の高い大学を出ても、社会において


「つかえねえな、こいつ」


と思われてしまう人材は山ほどいます。それは、第一段階だけで、第二段階を見過ごしているからですね。


 逆に、学生時代の勉強はいまいちでも、人生を過ごすうちに「どうこの世界を生き延びてゆくか」に力を発揮する人たちもいます。その人たちは、学歴は遡ることはできませんが、その時々に応じて「新しい知識を自ら学ぶこと」で乗り越えてゆきます。

 (結局、勉強は続けているというわけです)


 ちなみに、知識というのは単なる物量なので、いくらでも後から増やせます。しかし、それを使いこなす能力は技量(テクニック)なので、得意な人と不得意な人がいます。


 そこが、ちょっとしたポイントだったりします。




 さて、みなさんはこれから、高校3年間、大学4年間でいろいろな知識を学習しますが、それらは全て第一段階ですから、何を勉強しようと実は「生かせるかどうかは」わかりません。


 たとえ司法試験に合格しても同じです。弁護士になれる資格があっても、「仕事がこない」人は山ほどいます。


 ここがポイントですが、


「発展途上国の場合は、知識を持っている人の数が少ないので、知識を持っているだけで重宝される」





「先進国になると、知識を持っている人の数はたくさんいるので、知識だけでなくそれを使う力が試される」


というわけです。



 みなさんのおじいちゃんの時代、そしてお父さんの時代までは、まだ「大学卒業者」が重宝されましたが、今は違います。知識を持っている人は、いくらでもいるのです。





 さて、ここからは少し見方を変えて、違う視点でお話しようと思います。ではなぜ、今でも私たちの周りでは「偏差値がどうの」とか「いい学校が」とか「いい会社が」といった話がまだ残っているのでしょうか?


 それは、学校というシステムがもっている、ある機能に社会が期待しているからです。その秘密をお話しようと思います。



 まず、いい学校とは何か。みなさんが思い浮かべる「いい学校・お勉強ができる学校」の名前を想像してみてください。その学校は、おそらく中学校からすごく勉強ができる生徒が通う学校で、最終的には東京大学に進学する生徒がたくさんいるような高校ももっているかもしれません。


 その学校の名前を仮に「難高」としましょう。良く似た名前の学校がありますが、気のせいです。


 「難高」はいい高校とされています。「難高」からは、東大進学者がたくさん出るくらい、優秀だとされていると仮定してください。


 ここで、ちょっと考えます。「難高」は授業内容が高度で、しっかり教えてくれるから、生徒は東大へいけるのでしょうか?それとも「もともと東大へいけるような生徒が集まる」のでしょうか?


 これは、実は誰も恐ろしくて実験したことがありませんが、答えは「後者」です。


 そう、「難高」から東大入学者がたくさん出るのは、「難高」が教える力がすごいのではなく、もともと入学する生徒の力がすごいからなのです。


 もし「難高」に大量のヤンキーが押し寄せてきたら、「難高」は大学どころか、高校卒業すらあやうい生徒の溜まり場となることでしょう。



(もちろん、能力の高い生徒が集まることで、より内容が高度な授業ができる、という面はあると思います。生徒の力と授業の力が掛け合わさって、より相乗効果を生んでいる面もありますが、ここではその点は考慮しません)




 さて、それでは「いい学校」というのは、そもそも「いい生徒が集まる」ことで「いい学校」になっているのだ、ということがわかりましたね。


 これは、学校には「選抜機能がある」と一般的に言われます。日本社会には、たくさんの「地域一番の学校、二番の学校、三番の学校」があり、中学や高校に進学する時点で、多くの生徒が振り分けられるようになっています。


 そして、次に大学入学時点で、さらに振り分けられるのです。



 この


「振り分け機能」


が、実は日本社会にとって、めっちゃ便利なのです。


 そう!とてもとても、ある人たちからすれば便利なので、やめられないのです。


 あなたが、どこかの会社の社長をしていて、優秀な社員を欲しいなあ、と思っているとき、5人の人間が現れたとしましょう。


 その5人の人間が、どれだけ知識を持っているか調べるには、5人に対して学力試験をしなくてはいけませんが、さてどれくらいの問題数とか、どれくらいの難易度で、誰が問題を作ればいいでしょうか?


 ・・・うーん、考えるだけでメンドくさい感じがしますね。実際に、その試験を作って、試験を実行するには、手間もかかります。採点もしなくてはいけません。


 しかし、Aくんは中卒、Bくんは高卒、Cくんは名もなき大学卒業、Dくんは東京大学、Eくんはハーバード大卒だとします。


 すると、別に学力試験をしなくても「ああ、Aくんは中学校レベルの知識、Bくんは高校レベルの知識、Cくんはふつうの大学レベルの知識・・・を持っているんだな」


とすぐに分別できます。


 こういう便利さを「ラベル」といいます。誰それが何々大学卒業であるということは、その人が、そこを卒業できるくらいの力があったんだな、とおでこに「ラベル」が貼られていて、すぐに分かるのと同じだというわけです。




 私たちの身の回りの商品には、「特上」とか「並」とか、「上選」とか「ピュアセレクト」とか「純生」とか、いろいろなラベルが貼られた商品があって、「どノーマルな普通の商品とは違いますよ~」ということをPRしています。


 学歴もそれとおなじで、「何か、普通より上っぽいラベル」が貼られていたほうが、より買ってもらいやすくなります。


 しかし、逆の言い方をすれば


「新米・農家が選んだ特選ほしのゆめ」




「ふつうのコシヒカリ」


とどちらがおいしいかは、食べる人の好みですよね?


 「やっぱりコシヒカリがいいわ~」という人もいるし「さすが新米」という人もいます。なので、どの大学を出た人物が、どれだけ「使えるか=おいしいか」は食べてみないとわからなかったりもするわけです。


 ただ、だからといって「なんのラベルも貼っていない、わけのわからないお米」を指名してくれる人は、あまりいません。なので、そういうお米は


「金額を安くしないと売れない」


わけです。


 だから、学歴がない人は実力があるかもしれないけれど、安い給料でスタートせざるを得ないのです。




 高校・大学で何を学ぶかは、あなたの好きにしたらいいことです。しかし、その結果、あなたのおでこにどんなラベルが貼られるのかを知っておくことは、悪いことではありません。






 

 




2014年10月19日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書13】勉強とは何か?

 前回は、どうやら勉強を続けないとダメそうだ、という状況についてお話しました。世界の国の中で、あなたがどちらかと言えば高い給料をもらって生きていこうと思えば、勉強することは避けられそうにありません。


 では、ここで基本に戻ってみましょう。そもそも「勉強」ってなんなのでしょうか?どうして人は勉強するのでしょう?




 では、いきなりですが例え話をします。



 あなたはテレビを作ったことがありますか?



 これを読んでいる99.9%の人がたぶん「無い」と答えると思います。いやいや、それより自分にはテレビなんて作れないよ!と思うことでしょう。


 私はテレビを作ったことがあります。3台くらい作りました。作り方は簡単です。アホでもできます。


 パチンコ台から外した液晶画面と、画面に映像を映し出す基盤と、音を出すスピーカーと、電波を拾ってくるチューナーの部品と、電源をくっつけるだけでできます。


 部材の数で言えば、5つですね。電源はそこらへんに転がっているACアダプターで大丈夫です。



 5つくらいの部品をくっつけるのは簡単です。出ている線も全部で10本くらいのもんですから。


 (もちろん、テレビがデジタルになってからは少しややこしくなりました。カードを差したりしないといけないとか、いろいろルールが変わったので)


 それなら簡単そうだ、とみなさんも思うことでしょう。その通り、ほんとうに簡単です。


 

 どうして私がテレビをつくることができたかと言えば、「既に誰かがテレビを発明していて、既に誰かが部品を作ってくれていたから」に他なりません。


 そうでなければ、一から液晶画面を製造したり、ほんの小さな部品ですら、自力で作ることなんてできるはずがありませんよね。


 これは、実はすべての人にとって同じことが言えます。今、ソニーの会社に勤めて、テレビを作っている人に「テレビを一から作ってください」とお願いしても、絶対に無理です。


「えー、そんなの言われても、俺がやっているのは、テレビを作る機械を動かしているだけで、部品をよそから仕入れてきたり、どこか別の部署で作っているのを集めて組み合わせているだけだもの」


と肩をすくめることでしょう。なんだ、それなら私とやっていることは同レベルじゃないか、というわけです。




 すでに誰かが作っているモノ、これは私たちが「勉強する内容」に似ています。私たちが学校で勉強するのは、「既に誰かが発見したり、調べたりしたことの結果」を横取りして利用させてもらっているに過ぎません。


 あなたが何もないところから独自の文字を生み出すのも大変なことだし、水を分解して水素と酸素に分けることだってできっこありません。


 この世界のことを、一から「知ろう、理解しよう」とするのは、恐ろしく大変な作業なのです。なので、それぞれの国や地域で、それらの中から最小限コンパクトにまとめた「これまでにわかっていることのリスト」をみなさんに伝達する、それが学校で教えられている内容だということになります。




 勉強というものは、自分で一から、最初から努力せずに済むためにあるものなんだ、ということがざっくりわかった時点で、では勉強しないとどうなるのかについてお話します。


 今の大人にその質問をしても「勉強しないといい会社に入れない」とか、そういう古めかしい話をされるのがオチですので、その手の話はとりあえず聞き流しておきましょう。




 実際に勉強しないとどうなるのか。その最も重要な部分は「何かを作ることができない」ということです。


 私たちは一般的に消費者と言われ、「何かを買ったり使ったりすることは大得意」です。しかし、それはお金を払うほうの立場であって、お金を使うためにはお金を稼がなくてはいけませんね。



 お金を稼ぐためには、何かモノを作って、それを売らなくてはいけません。あるいは、あなたの体を使って肉体で稼ぐしかありません。


 何かを作るためには、それがたとえ誰かの作ったもののパクりであっても、その作り方を知らなくてはいけません。また、その材料をもらってきたり買ってこなくては作る事ができないわけです。


 作り方を学ぶのはズバリ勉強そのものですね。材料を手に入れるのはさっきのテレビの話と同じで、誰かがやってくれたことを流用するわけですから、これも勉強に似ています。


 というわけで、「勉強すれば、何かが作れる」というところまではわかりました。




 逆に、もう一つの生き方である「体を使って肉体で稼ぐ」というのはどうでしょう?建設作業に従事する人は、人の手で穴を掘ったりします。


 人の手で穴を掘ったり、人の手で柱を建てたり、そういう仕事をしている人たちは、その意味では学校の勉強内容があまり直接役立たないかもしれませんね。


 しかし、普通の人であれば「いやー、いつまでもこんなことやってると疲れるだけなので、どうにかもっと効率を上げたり、楽に仕事ができる方法はないかなあ」と考えはじめます。


 ピラミッドをすべて人の手で作っている時代であれば、全部が人力ですが、それでも「ソリ」とか「コロ」とかを発明したり使ったりして、「なんとか楽にこの仕事をしたい」と人類は思ってきたわけです。


 そこでどうするか。工具を使ったり、機械を使って楽になりたいと考えます。賢い人ならば、「こんな道具を作ろう」と考え始めますし、ふつうの人でも「建設機械の免許を取って、楽に仕事をしたい」と思います。


 ほら、やっぱり免許を取るために勉強をしなければならなくなりそうですね。



 勉強をしなくてもOK、という人生を送るには、「食べ物を自給自足し、すべて自分の肉体で働く」という状況でないと無理なのです。


 つまり、めちゃくちゃしんどい!勉強をしたくない~、と言っているヤワな人には耐えられない生活が待っているということです。


 筋肉ムキムキで、野生でも生きられそうなワイルド君であれば、現金もいらず野草と野獣を食べて、体だけを使って生きていけそうですが、あなたには確実にムリだと思います。




 なんとなく、わかってきたでしょうか?そうです。勉強というのは、結局は「以前に誰かが既にやってくれたことをパクったり、利用したりして、楽に人生をすごす」ことなのです。


「こうすれば楽にできるよ」という知識が多いほうが、人生はさらに楽になります。


言い換えれば、「こうすれば効率がいいよ」とか「こうすれば生産力が上がるよ」とか「こうすればお金が稼げるよ」とか、そういうことです。


だから、勉強し、知識量が多い人ほど、「労働が楽」であったり「稼げる金額が多い」というしくみになっているわけですね。




 もちろん、勉強することの本来の意味合いが、現在では多少ずれてきてしまっていることもあるので、「たくさん知識を持っている人が、誰でもお金持ち」とは限りません。それは、この前のお話で説明したとおり、


 学力だけあっても、イノベーションできる人材じゃないとダメ


という話と関連してきます。


 そう!知識がいくらあっても、それを「使いこなすテクニック」を持っていないと本来の力が発揮できないからです。




 ちょっとずる賢い人なら、こんなことに気付くと思います。


「知識だけなら、グーグル先生に聞けばなんでも教えてくれるじゃん」


なんてことを言いそうですね。はい、もちろんその通り。グーグル先生の知識量は、半端ありません。パネエです。


 しかし、ここからがポイントです。グーグル先生は「知識・情報」を教えてくれますが、


「そこからそれをどうするのか」


までは代わりにやってくれません。


 ”おいしいパスタをゆでるために、ゆで時間は10分”とグーグル先生が教えてくれても、かわりにゆでてはくれないのです。


 そこがミソです。さっきの話と同じで「大事なのは知識だけじゃなくて、それを使いこなす力」だと言う訳です。




 それでも、幸せなことに、世界のほかの国々では、その「知識」の部分すら満足に伝達されていない国がたくさんあります。


 世界第二位のある国でも、「国家が隠していて教えてくれない情報・知識」がたくさんあったり、「真実とは異なる、意図的に改造された知識」を教えられたりしていることがあります。


 そんなキモチの悪いことが起きているのであれば、よりいっそう「何が正しいのか、自分でもっと勉強したい」と思うようになりませんか?


 きっと、その国でも「真実を知るために勉強しよう」と思っている若者がたくさんいるはずです。











 

2014年10月18日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書12】第三章 どうして勉強しないといけないのですか?

 どうして人は勉強しないといけないのでしょうか?


 これは、学生にとっての「永遠の悩み」のようなものです。おそらくあなた以外のすべての「かつて学生だった人・今学生である人」が皆


 ”どうして勉強しないといけないのだろう”


と思ったことがあるはずです。




 その理由は、後でお話しますが、少なくともこれまでは「いい学校に入って、いい会社に就職するため」ということが、多くの人の間で信じられてきました。


 勉強をする→いい成績を取る→いい学校(偏差値の高い学校)に進学する→いい会社(給与の高い会社)に就職する


という流れは、日本の社会の中で「よい人生」とされてきたからです。


 ところが、それは日本の経済全体が上昇する、という条件があってはじめて成立することでした。


 これも以前にお話しましたが、日本人は給料が安かったので、世界中からいろんな仕事がまいこんできました。そこからみなさんの先輩が一生懸命働いて、どんどん経済発展することができました。


 この期間は、「よりよい製品を作れる会社」「よりたくさん販売できる会社」など実力のある会社に就職することが重要だったのです。そして、その会社に入社するには「試験という選抜を突破」するために学力が必要でした。


 (厳密には、入社試験そのものよりも、学力の高い大学に入ることが重視されましたので、学力の高い大学を卒業すると、かなりの高確率でよい会社に入社することができた、ということです)


 

 ところが、日本人の給料が高くなってしまうと、世界中の仕事の多くは、より給料の安い外国へと流れていってしまいました。ということは、「高い給料といい会社」というこれまで「良い」とされてきたことが、「良いとは言えない、悪い」と逆転してしまったのです。



 まだ、ちょっとわかりにくいと思うので、たとえ話をします。



 10万円のテレビがあります。有名ないい会社が作った画質のいい製品です。40インチのテレビです。


 5万円のテレビがあります。アジアの国の名もなき会社が作ったふつう画質の製品です。40インチのテレビです。


 どちらがたくさん売れるテレビだと思いますか?そう、答えは簡単。いいテレビが欲しい人も一定数はいますが、ほぼ確実に5万円のテレビのほうが、圧倒的に売れることでしょう。


 ということは、「いい製品を作るいい会社は稼ぎが少ない」ということになります。「そこそこの製品を作るアジアの会社は稼ぎが多い」ということになるわけです。


 あれ?おかしなことが起こっています。「いい会社がちっとも良くない」ことに気付きませんか?だって、もらえるお金が少ないんだもの!変ですね。


 これが今の、そしてこれからの日本で起きていることなのです。




 こういう仕組みで、これまで「いい会社」とされてきた「技術力もあり、販売力もあった会社」がどんどんと弱ってきてしまいました。ソニーや松下電器がしんどくなったのもそのせいです。シャープがえらいことになったのもそうです。日本だけでなく、アメリカでもおなじで、IBMといったコンピュータの会社がパソコン部門を中国に売り払ったりしています。

 そんな事例は山ほどあります。いくらでも「これまでいいとされてきた会社」がダメになっているのです。



 そのため、これまでの「いい学校からいい会社」という道筋が通用しなくなってきたわけです。



 では、どうすれば先進国の高い給料の人たちが、お金をそれだけ稼ぐことができるようになるのでしょうか?ヒントは、あなたの手元にあります。


 現在、アップルという会社がiphoneという携帯電話・スマートフォンを売り出して世界中でお金を稼いでいます。(もちろん、アジアの国もそれに負けないように真似した製品をたくさん作っています)


 iphoneが凄い!と言われるのは、ざっくり言えば「誰も作ったことがないような新しいモノ」だったからです。(もちろん、どんな新しいモノもいつかは当たり前になりますが)



 新しい、誰も作ったことがないようなものは、他が真似して追いつくまでは「高い値段」で販売することができます。そこがミソです。高い値段で販売できるから、先進国で働く人たちの高い給料をまかなえるのです。




 ということは、先進国民は常に「新しい、誰も思いつかなかったようなモノ」を次々に作り続けないと高い給料を払い続けられない、ということになっているのが今の状態です。



 IPS細胞のような、新しい技術を開発したり、蛍光灯をLEDに変えたり、とにかく「今までより良い、新しいモノ」を作り続けなくてはいけません。


 一般的にはそういうことを「イノベーション」といったりします。革新ですね。イノベーションできる人材がいないと、高いお金は稼げないのです。



 さあ、これが難しい。これが勉強とどう関係してくるのでしょうか?




 まず、第一に「勉強ができることと、新しいモノを生み出すことができることは違う」ということが大切なので、そこをしっかり押さえておきましょう。


 新しいモノを生み出すことはアイデアを思いつくことなので、学力があることとは別の能力です。大学の偉い先生はみな発明ができるか?といえばそうではないですね。もちろん、学力も無関係ではないけれど、そこだけがポイントではありません。


 わかりやすい例を挙げましょう。


 「使い易いデザイン」「誰でもすんなり使えるデザイン」を生み出そうとした場合、どれだけ勉強すればそれを作れそうですか?


 うーん、なんとなくいくら勉強してもダメそう、だとみなさんでも直感的に気付くはずです。その通り、こういうモノは机の上のお勉強だけでは生み出せそうにありませんね。



 というわけで、勉強ができること、学力があることだけでは、高い給料に結びつけることが難しい時代に突入してきました。そうすると、大切なのは学力以外の「経験」であったり、「別の能力」だと言えそうです。



 ぶっちゃけ、じゃあどうすればそうした能力を育てることができるのか、についてはまだ誰もわかっていません。なので、日本中の大学では毎日のように、自分たちの学校をどうしたらいいのか模索を続けています。


 学力についてはみな自信があるけれど、これからの日本の経済を伸ばしてゆくための方策については誰もわかっていないので、賢い大学の先生でも困っているのです。



 第二のポイントです。では、学力が重要でないとすれば、勉強はしなくてもいいんじゃないか?と誰もが思うはずです。それについてはどうでしょうか。


 いえいえ、そうではありません。これもぶっちゃけ嫌な話をします。いいですか?実は大変なことが起きているのです。


「あなたが知らないところで、別のアジアの国々の高校生が、たくさん勉強をして、あなたに勝ってあなたから給料を奪い取ろうとがむしゃらになっている」


ことをあなたは知りません。あなたに追いつこうとしているヤツラがたくさん背後から狙っているのです。ああ、恐ろしい!


 韓国サムソンという会社が、iphoneの真似をしているといって訴訟になったりしていますね。アジアの国では10万円のテレビの真似をして、5万円のテレビを作っています。


 これは、つまり、電話を作れる・テレビを作れるという話において「他の国の学力も、そこまで追いついてきている」ということを示しています。


 もしあなたが勉強をしないと、あなたの未来はもっともっと貧しい国の人々と同レベルになってしまうということなのです。恐ろしすぎてチビりそうです。



 私が学生の頃は、そこまで考えなくてもなんとなく勉強していれば、なんとなく日本全体の経済力でなんとなくなんとかなりました。しかし、それは私たち世代でおしまいのようです。


 

2014年10月17日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書11】人は何のために生きているのか

 あなたが高校を卒業して、進学したり就職したりしたのち、もしかしたら誰かと出会って「結婚」することになるかもしれません。


 以前からこの話で書いているように、みなさんのうち「全ての人が」結婚するわけでもなく、また子供を授かるわけでもありません。


 生涯未婚率でお話すると、2010年の統計で、男性は20.1%、女性は10.61%の人が、50歳時に未婚であり、かつ、それらの人は恐らく大半が死ぬまで結婚しないと推測できます。


 つまり、あなたが男の子であれば、10人に2人は結婚しない・できないことになります。40人クラスだと8人が結婚しません。


 あなたが女の子であれば、10人に1人は結婚しない・できないことになります。40人クラスであれば4人が結婚しないということです。




 ということは、少なくともこれらの人は「家族・夫・妻のために人生を過ごす」ということがないわけです。この人たちの人生の意味は少なくとも「家族」ではありません。


 自分のため、会社のため、仕事のため、趣味のため・・・。


 いろんなもののために「人生を使う」ことはできますが、この人たちは残念ですが、子孫を残さず次の世代に何かを伝えることができません。


 ということはその人たちの世代で「人類誕生から続いてきた家系の歴史」はおしまいですから、しっかり残された人生を楽しんでもらえばいいと思います。




 もし、人類が一週間後に滅びるとしたら、どう過ごしますか?



 残された期間が、しっかり充実したものとなるように、生き生きと暮らしたいはずです。



 生涯未婚という選択・結果になってしまった人は、人類の規模で「残された期間を楽しんで」ほしいと思います。




 今度は、なんとか結婚することができた人の場合について考えてみましょう。以前に、少子化の話をしたときに、夫婦のこどもの数についてもお話しました。


 出生率といいますが、女性が生涯に産むこどもの数は1.3とか1.4くらいです。すでに2人を切っていますから、人口は減る一方なのです。


 ちなみにおさらいですが、男と女の2人で、こどもが1人作ることができます。お父さんとお母さんはいつか死にますが、こどもは残ります。なので、その夫婦にこどもが2人いれば、人口は同じまま維持されます。(事故や災害で減ることはあります)


 もし、こどもが3人いれば人口は増えてゆきます。1人になると減る一方です。




 しかし、ここで覚えておきたい大事なことがあります。それは「全ての人がこどもを授かるとは限らない」ということです。


 不妊の確率は、今や「7組のカップルのうち1組のカップルは不妊」といわれるようです。あなたが女子だとすれば、40人学級で20人が男子、20人が女子だとして、そのうち3人の女の子は赤ちゃんができないということになります。


 なぜ、そんなに高確率で不妊になるのか。その理由は実はけっこうハッキリしています。


 一番の原因は晩婚化、結婚する年齢が遅くなったことにあります。私たちの世代が若かりしころは



 クリスマスケーキ



という言葉がありました。女の子は、クリスマスケーキだったのです。


 クリスマスケーキは、12月24日に大量に売れます。クリスマスイブですから、買って帰る人が山ほどいるからです。ところが12月25日になると、夕食後にケーキを食べる人は、ほとんどいなくなります。つまり売れ残りです。


 女の子は24歳までなら、貰ってくれる男性が山ほどいるのですが、25歳になると売れ残り、だという例えなのです。ちょっと上手いことを言いすぎですね。



 ところが、そんな話はもうどこかへ行ってしまいました。25歳どころか、現在では始めての結婚が30歳を超えることが当たり前のようになってきたのです。そうすると、30歳から35歳ぐらいにかけて妊娠出産することになります。長男・長女はそれでいいですが、そこから数年あけてこどもを授かろうとするとどうなるでしょう?


 あっというまに40歳になったりします。女性の体は、既に老化しているわけです。


 

 最初の結婚が遅いために、妊娠の確率が下がり、一生のうちに授かる子供の数も減ってしまいました。江戸時代なら、男子は15歳で成人ですから、もう結婚できる年齢です。10代でこどもを産むことも多かったので、たくさんこどもを授かりました。


 現在の法律でも、女性は16歳で結婚できます。ということは、16歳で母になっても大丈夫、ということなのです。いちおうは。


 科学的な見方をすれば、女性が妊娠出産に適している年齢の幅というのは、早い意見で


「16歳から24歳くらい」


遅い意見で


「20代から遅くとも35歳まで」


とされています。


 早すぎても体が成熟していないし、遅すぎると体が老化してしまいます。




 さて、ここからが重要な話です。では、なぜそもそも結婚が遅くなり、妊娠・出産が遅くなってしまったのか。


 それは女性の社会進出と関係します。クリスマスケーキの話を思い出してください。24歳で結婚するということは、大学を22歳で卒業して2年後には結婚するということです。そこから妊娠出産に入るとすれば、23歳頃には、会社を退職しないまでも産休に入らないといけないということになります。


 もし、こどもを2人・3人ほしいと思えば、そこからほぼ連続して仕事ができません。産休・育休・産休・育休を繰り返していると、これはどうも仕事にならないなあ、ということになります。


 なので、大半の人は、24歳の時点で仕事を続けることを諦め「寿退社」したわけです。


(実際には、女性の学歴が低かったため、高卒18~24歳まで6年間、短大卒20歳~24歳まで4年間といった働き方をする人が多かったようです)



 ところが、女性の大卒者が増え、社会進出が進むと「こどもをもうちょっとだけ我慢して、その間仕事に励みたい」と考える女性が増えるようになりました。


 そのため、結婚も遅くなり、妊娠出産も遅くなったのです。



 ここからはかなり、「ぶっちゃけた」話をします。



 そうして仕事中心の女性の生活が当たり前になった今、女性にとって「2つの生き方」が浮かび上がってきました。


 一つは、こどもをあきらめて自分たちの人生を豊かにする道


 もう一つは、仕事をあきらめて家族の人生を豊かにする道


です。

 こどもを諦めたり、あるいはたった1人だけこどもを作り、その代わりに高い給料を夫婦で稼いで豊かな暮らしを楽しもう、という生き方もあります。


 逆に、仕事に追われるのではなく、やっぱり子育てと家族の人生を大事にしたいという生き方もあります。


 この2つが、それぞれ真逆のようですが、どちらも重要なこととして選ばれるようになってきたのです。残念なことに、ちょうど真ん中あたりとか、バランスのいい、都合のいい生き方をチョイスするのは難しいようです。
 みなさんが大人になる頃も、まだ「自分はどちらの人生にしたいか」という軸足を決めておかなくてはいけないかもしれませんよ。



 ちなみに、欧米のお金持ちの間では「やっぱり私は専業主婦になりたい」という希望が増え、共働きをやめる人たちが出てきているそうです。会社人間として生き、子孫も残さないなんて人間らしくないわ!と感じる女性は、(お金を持っている夫を見つけて)主婦に戻りたいようですね。




 私の個人的な意見を言わせてもらえるならば、この文章の上のほうで書いたとおり、


「こどもを生まない、生めないという人生は、人類的にそこで滅亡」


だということをどう受け止めるかがカギだと思います。


 夫婦でお金をしっかり稼ぎ、2人で残された人生を楽しく過ごす、というのもアリです。なんせその人たちの子孫おらず、そこで滅亡するのですから。その日まで幸せに過ごしてほしいものです。


 そうではなくて、こどもや子孫を繋いでゆくこと、あなたの遺伝子を残すことを大切だと思うのならば、少なくとも人類的に、あなたには未来があります。かならず未来がやってきて、滅亡はしません。それも、もちろんアリです。



 私自身は、こどもを残すことを選択しました。少なくとも、私の遺伝子には未来があるように、人類が未来に続くように考えながら生きることにしています。







 

 


 



2014年10月15日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書10】愛されたい症候群

 愛にも、いろんなジャンルの愛や、いろんな種類の愛があるのですが、みなさんが将来どんな異性と(ああ、申し訳ない、最近では同性同士ということもありますね)愛し合うのかは、まだあまりはっきりしていないかもしれません。


 高校生であるみなさんにとって身近なことを言えば、例えば高校3年間であなたに好きな人ができて、幸福にもお付き合いしていたとしましょう。ところが、高校3年生の時、いよいよ自分の進路を決める段になって、「あなたの彼氏彼女と同じ地域に進学・就職するかどうかはわからない」ということが必ず起きるでしょう。


 これは、高校生の時恋愛して卒業していった全ての人が体験しています。そう、「すべての人」がです。


 パターンは3つくらいしかありません。

 ①同じ学校(進路)へ進む。

 ②せめておなじ地域へ進む。

 ③バラバラにそれぞれの道へ進む。


 で、その結果愛が成就して結婚までゆくか、あるいはそれぞれ別れてしまうかのどちらかですから、あれ?実は高校生にとっての「愛の人生は」3×2通りで6パターンしかないということですね。


 そう考えると人生なんて、小さなものです(笑)




 さて、高校3年生という先のことは一旦置いておいて、みなさんに直近で関係のある「愛」の話をしましょう。


「愛されたい」


というキモチは誰もが持っている感情だと思います。それが具体的に「彼氏・彼女がいる」という話でなくても、クラスの中で、部活動の中で、あるいは何か集団の中で、親やきょうだいから


「自分がきちんと認知されていて、適切な立ち位置で認証されていたい」


と思うことは自然なことだと思います。


 学校生活において、「愛されたい症候群」は、いろんな形で表に出てきました。これはあなたの先輩たちもみな通ってきた道です。


 たとえば、現在高校生であるみなさんにとっては、LINEのグループに入っている、いないとか、SNSに入っている、いないといったハイテクな分野で、そうした「愛されたい」「仲間はずれになりたくない」「認められたい」といったことが表に出てきていることでしょう。


 スマートフォンが今のように広がっていない時代では、携帯のメールやらネットの掲示板が、それらの代わりをしていたこともありました。


 私が高校生の頃は、もっとストレートに「クラスの中で、あいつは・自分はどんなキャラか」といったことで互いを認知していました。ああ、女子の場合は、今も昔も「どのグループに入っているか」という問題が、人生の大半を占めていますね(苦笑)




 この「愛されたい」「認められたい」という衝動は、人生を大きく左右します。


 それは「どんな方法で?」ということにつながるからです。


 「認められたいから勉強で頑張る・部活で頑張る」というのは、ベタですが意外に多くの人の基本的なモチベーションになっています。


 「キャラを立たせたいので、変な言動をする」という人も、たまにいます。ここまで極端でなくても、「可愛くみせたい」がこじれて「濃すぎる化粧」になってしまっている女子は、そこそこいます。


 逆に、そうした「愛されたい症候群」が1周回ってしまうと、その先まで行ってしまって「自分はそもそも、愛されなくてもいい」と「1人にしておいてオーラ」全開になっている人もたまにいます。


 苦しいことですが、そもそも「基本的に誰からも相手にされない」人もいます。




 いずれにせよ、「愛されたい症候群」とどう付き合ってゆくのか、どう折り合いをつけて生きてゆくのかは、高校生の人生の「大半」を占める大きな問題なのです。


 昔から「いじめられていた」とか、「友達がいなかった」という人が、大人になっても人間関係をうまく構築できず人生で苦労する話はたくさんあります。


 あなたの周りにも引きこもりをしている人がいるかもしれません。彼らは学生時代に、何か問題の根っことなる出来事に出くわした可能性が高いのです。


 あるいは、見かけ上「誰とでも仲良く」していた人であっても、「本当の自分の性格とは合わず、ムリをしていた」ということは良くあります。



 さて、ここまではそんな高校時代の生活を「ざっくりまとめてみた」だけですが、人生を考える上で、いちおう大人である私からみなさんに伝えておきたいことがあります。


 それは、


「愛し、愛されない性格は、社会に出る前に直しておいたほうがいい」


ということです。


 「大人しい」とか「暗い」とか「からみづらい」とか、一般的に言ってネガティブな性格・言動というものがあると思いますが、そうしたことが原因で「愛されない」「認められない」生活を送っている人が少なからず存在しています。


 そうした性格や言動は、これまでは「個性」だと言われてきました。特に、私が学生の頃から、「人の多様性を認め合おう」とか「個性が大事だ」なんて考え方が広まったので、みなさんもその影響を多分に受けているはずです。


 しかし、それは結果的に間違いです。厳しいようですが、はっきり言っておきます。ネガティブな要素は、「個性」であることは認めますが、


 確実に人生で損をする


ことが判明してきました。


 なぜか?簡単です。


 あなたがどこかお店に入って、店員が無愛想だったりぶっきらぼうだったり、目を合わそうとしない人だったらどうでしょう。嫌な気持ちになったり、テンションが下がるはずです。そんな店員しかいない店と、明るく元気で爽やかな店員ばかりがいる店だったら、どちらが競争に勝てると思いますか?


 そうですね。とても簡単です。コミュニケーションがとれない人たちは、この世界では競争に負けます。


 残念ですが事実です。競争に負けるということは、コミュニケーションが取れない人の人生は、金銭的に貧しくなるということなのです。



 だから、早いうちから、努力で改善できるものはしたほうがいいのです。いくら苦しくても、これだけは身に着けておいたほうがいい。努力して変革したほうがいいのです。



 では「個性が大事」なんてことばがなぜ広まっていたのでしょうか?「明るく元気で爽やか」な価値観と反対でも「それでもいいよ、あなたらしくすればいい」なんてことが、どうして許されていたのでしょうか?


 それも簡単です。日本にお金があったからです。日本の景気がよく、経済成長が続いていたので、マイナスの側面であっても「余力でカバー」できたからです。


 ところが、日本は中国や韓国、アジアのほかの国々にどんどん経済的に追いつかれはじめています。国の借金も途方もない額になろうとしています。


 すると、マイナスの要素を持つ人たちをカバーしきれなくなってきました。それでなくても、自分たちの人生さえ危ういかもしれない。だからこれから、日本はもっともっと厳しい時代を迎えることになるわけです。



 「愛されたい」という思いを、こじらせる人は、これからどんどん大変になります。「愛されたい」だけを主張する人もそうです。現状として「愛されない」人も、厳しい境遇になることでしょう。


 これまではお父さんがお金を持っていたので、引きこもることができました。これからの引きこもりは、お父さんがお金を持っていないので、すぐに貧民へと転落してしまいます。



 「同情するなら金をくれ!」

は、某ドラマの名台詞ですが、これからは

 「引きこもるなら金稼げ!」

になるかもしれませんね。



 
 最後に、これからの人生を大きく変えるための「魔法の方策」を伝えておきます。


 あなたがもし「明るくない・元気じゃない・爽やかじゃない・かっこよくない・大人しい」などのいわゆるマイナス要素を持っていて、もともとコミュニケーションが得意ではない性格でも、これからの人生を豊かにすることができる魔法の裏ワザがひとつだけあります。


 それは「愛すること」です。


 まるでキリスト教の教えみたいですが、そんなにカタい話ではありません。


 愛する、つまり「誰かに対して、自ら何かを提供する」ことは、暗くても大人しくてもできます。モノを渡す必要も、お金を配る必要もありません。


 行動、労働力で示す。心配りで示す。そういうことは、「苦虫を噛み潰したような顔」のままでできるのです。


 たとえば、放課後1人でムスッとしながら、教室の掃除を毎日続けてみてください。黒板を翌朝までにピカピカに拭き上げてみてください。誰にも気付かれないように。


 それだけで、あなたの人生は確実に変わります。


 そんなことをするのは損だ、と思うのは早合点です。私は、今の会社で「誰よりも早く来て会社の鍵を開ける」ということをずっとやってきました。それだけで今、すべての人を差し置いて管理職になっています。


 私の場合は「鍵開け」でしたが、あなたはあなたができそうなことを一つだけ探せばいいのです。たった一つでもぜんぜん大丈夫です。


 「愛されること」はなかなか叶いませんが、「愛すること」は簡単にできます。そこがあなたの人生を良いものに変える最小で、最大のヒントです。

 

 

 

2014年10月13日月曜日

【高校生のための”人生”の教科書09】愛の歴史、愛のメモリー

 前回は、運命の愛なんて存在しないかもしれない、という少々キツイお話をしてしまいました。


 高校生のみなさんにとっては、「それじゃあ、ちっとも夢も希望もないわ」ということになってしまうかもしれません。ですが、それでは、これまでみなさんの先輩方はどうやって「愛」を見つけてきたのか、ということを振り返ってみると面白いかもしれませんね。


 というわけで、今回はみなさん以前の「愛の歴史」つまり「愛の記録、愛のメモリー」を遡ってみることにしましょう。


 第一章で、みなさんの先祖が、どのようにこの世界で生きてきたのかを簡単に振り返りました。お父さん、お母さんやおじいちゃん、おばあちゃんの暮らしぶりをなんとなく振り返ってみたのを思い出してみましょう。


 今回のお話は、それに多少連動しています。以前は苗字のつながりだけを追いかけましたが、今回は「家族のつながり」を追いかけることになります。


 
 現代の日本人の男女は、すでに「結婚できない、しない」とか「彼氏彼女ができない、いない、いらない」とか、そういった「愛と無縁」の生活を送る人たちの割合が増加しつつあるところです。


 今高校生であるあなたが、その人たちの仲間入りをするのか、そうでないのかはわかりませんが、一応どちらの可能性もあるので、全般的な話をしておきましょう。




 日本の愛の歴史を振り返ると、「自分が好きな人と自由に付き合ったり、結婚したりできた」という人生を送ることができたのは、ご先祖さま追跡では、


「あなた」と「おとうさん・おかあさん」と「おじいちゃん・おばあちゃん」


の3世代だけです。それ以外の男女は、ほとんどの場合「自分が好きな人と付き合ったり、結婚できなかった」世代ということになります。


 現在の私たちや、みなさんの感覚からすると「えーっ!何それ?!じゃあ、みんなどうしてたの?」と驚きの声を上げることになると思いますが、実際そうだったんだから仕方ありません。


 日本の愛の歴史では、概ね「日本が戦争に負ける」までは、あなたの先祖は「その親や家族が決めた相手と結婚していた可能性が高い」ということになります。


 「あたしの気持ちはどうなるの?」「僕だって好きな人がいるんだ!」という自由な考え方や、権利というものは日本がアメリカに戦争で負けて、『アメリカの自由な考え方がいいんだ!』とみんなが思い始めてから採用されたので、それまでは「家族の大黒柱の家長(おとうさん)が全部決めるんじゃ」ということがまかり通っていました。


 なので、あなたから見て、ひいおじいちゃんやひいおばあちゃんは、「家族同士の付き合い」とか「家柄」とか「村の人間関係」とかの影響を多く受けながら「結婚相手」が決まってゆきました。


 これでもまだマシなほうで、ひいひいおじいちゃん・ひいひいおばあちゃんの時代まで遡ると、江戸時代の「身分制度」の影響まで受けるため、身分が違うと結婚できない、ということになってゆくのです。


 「お見合い」という言葉は、今も生き残っていますね。好きになったり、恋もしていないのに、顔を合わせて話し合いだけで結婚するシステムが今もあるのは、こうした昔の仕組みの名残です。




 ということは、つまり、「好きな人と付き合えて、結婚してもいい」制度を満喫できるのは「戦後生まれのおじいちゃん・おばあちゃん」と「お父さん・お母さん」と「あなたたち」だけです。


 日本の歴史の中で、ずーっと昔の人たちはとても羨ましがっていると思いますよ。


 ところが、そんなにみなさんは恵まれているのに、どうも自分で「愛を見つける」のは下手くそな人たちもたくさん存在するようです。


 カップルのうち3分の1が離婚するということは、日本人の3分の1は「愛を見失った」わけですね。すごい確率です。


 結婚したくても、結婚できない人たちもたくさんいます。結婚相談所という企業・会社も存在しており、お金を払って誰かを紹介してもらう人たちもいます。


 これを歴史的に振り返ると、「家長や、周囲が結婚相手を見つけていた時代」から「自分で好きに選べる時代」になり「やっぱり誰かに結婚相手を見つけてもらう時代」に逆戻りしたかのようです。


 なんとなく笑ってしまうのは、「あなたのことや相手のことを知っている家族親族に結婚相手を見つけてもらう」よりも、「お金を払って知らない人に探してもらうよう」になるなんて、どちらがいいのか微妙だと思うのは私だけでしょうか?




 

 

2014年10月12日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書08】あえて言おう、縁結びの神様は日本人である

 前回、みなさんに少しだけ考えてもらいました。人が「愛し愛される」時に、その相手となる人は、神様のような存在に決められるのでしょうか?あるいはそうしたことを「運命の人」と言ってよいのでしょうか?ということを。


 もし仮に、世界中の人たちの「運命の異性」同士を結びつけるような神様が存在するとします。そうすると、その神様は、世界中でもっともあなたにふさわしい人を選んでくれるわけですから、


「日本人のA子さんの運命の人は、アンティグア・バーブーダに住んでいるBさん」

とか

「アメリカ人のCさんの運命の人は、セーシェルに住んでいるDさん」

とか

「アフリカ人のEさんの運命の人は、トリニダード・トバゴに住んでいるFさん」


といったことが起こります。まーったく聞いたことがない国の名前が出てきましたね。もし、あなたが少し暇だったらグーグルで調べてください。そんな国があるそうです。私も知りません。


 しかし、この話は考えればすぐに変だということがわかります。


 あなたは「自分の運命の人」がまさかバルバドスにいるとは思いもしません。でも、それがアイスランドとか、ルーマニアとか、アメリカとか韓国にだったら、いるかもしれないな、と思うことでしょう。


 そう、つまりあなたの運命は「あなたが知っている範囲」にしか存在しない、ということなのです。


 もっとぶっちゃけて言えば、「自分の運命の人」は、たいていの日本の高校生は「おそらく日本人」だと思っていると思います。


 もっともっとぶっちゃけて言えば、「あなたが付き合うのは」「あなたが恋するのは」「あなたが結婚するのは」「あなたが愛する人は」・・・あなたの行動範囲の中にいるということです。


 つまり、あなたが運命だと思って付き合ったり、結婚したりする相手の99%ぐらいは、「あなたの目で見えている範囲」にしかいない、ということなのです。


 笑ってしまいますね。そんなものなのです。


 あなたが「運命を感じて」付き合ったり、結婚したりする可能性がある異性は、たいてい「おなじ学校」「おなじ会社」「おなじサークル」「おなじ趣味の集まり」ぐらいの中にいます。


 どうやら、あなたの人生にとって、「運命の異性と結びつけてくれる神様」は日本人のようです。世界全体からチョイスしてくれるわけでは、なさそうですね。


 ちなみに、あなたの友達で「運命の異性を信じている女の子」がいるとしましょう。彼女がある日、

「SNSで知り合ったセントクリストファー・ネイビスに住んでいる男の子が、あたしの運命の人なの!」

と言い出して、彼の顔を見たこともないのに

「彼と付き合うわ!」

なんて言い始めたら、あなたは必死で止めるでしょう。それは詐欺か何かだからやめておけ、と。


 考え方によってはひどい話です。運命の神様を詐欺呼ばわりするなんて!!!


 でも、この場合99%の確率で、あなたの方が正しく、それは無知な日本人の女子を騙そうとする詐欺だと確信できます。


 つまり、99%の確率で、「世界中の男女を結びつける、運命の神様なんていない」ことが証明されたわけです(笑)




 まあ、ちょっと上の話は行き過ぎた冗談ですが、この話から言えることは「運命の異性」なんて、たいそうに考えるのは時として「激しい思い込み」かもしれない、ということに気付くべきだ、ということかもしれません。


 運命の異性のために、人生を大きく変えることはあなたにとって時としてマイナスになるかもしれません。


「この人だ!」


と全ての男女は思いながら結婚し、そして現代の日本人の離婚率は3人に1人が離婚しますから、30%の確率で

「実はこの人じゃなかった!」

ということが明らかになっているのです。




 愛はすばらしいものですが、真実の愛を手に入れることができる確率は、30%以下のようです。

2014年10月11日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書07】第二章 これからの愛の話をしよう

第二章 これからの愛の話をしよう



 第一章では、まずあなたという人間がこの世界の、それもあなたがいま住んでいるその場所に生きている、ということを幾つかの側面からおさらいしてみました。


 それは、どちらかというと”人生”を考える上での「予習」のようなものでした。だって、あなたはすでに、あなたの苗字、あなたの家族、あなたの境遇で生まれてしまったので、それは書き換えることが難しい要素だからです。


 しかし、これからあなたの”人生”を考えるに当たっては、「これから新たに作ってゆくことができるもの」がたくさんあるのも事実です。というわけで、この章では、これまでのことではなく、あなたの人生の「これからのこと」にスポットを当てたいと思います。


 中でも、最初に取り上げるのは、やはり「愛」でしょう。人間という生き物は、いや、すべての生き物は生殖をして、子孫を作って、そしてこの世界に広がって繁栄してきましたし、またこれからもそうなってゆくことがほぼ大前提です。


(もちろん、中には絶滅してしまった種もいるし、これから絶滅する種もいますが、それは、まあ置いといて)


 人類が生殖活動をする上で、その最もベースになっている観念は「愛」です。これは、みなさんのような高校生にとっても「非常に関心のあるテーマ」だと思います。


 みなさんは歌謡曲やポップスを聴く事が多いと思います。音楽は一切聴かずに過ごす現代日本の高校生がいるとすれば、それはかなり希少な種族だと思うので、ぜひ私に紹介してください。


 そんなみなさんが聴いている音楽の歌詞の中には、大半が男女の間のこと、つまり「愛」に関わることが盛り込まれていると思います。


 今、彼氏・彼女がいないあなたでも、「彼氏や彼女に関する話題や、歌詞や、悩みが溢れている」ことは、既にお気づきだと思います。それが、いくら現時点のあなたに無関係だとしても。




 ところで、あなたは「運命的な異性が存在する」と思いますか?


 あなたを含めた男女の恋や愛について、もしかしたら運命を司る神様のような存在がいて、あなたと誰かを結びつけてくれるような、そんな「運命のひと」がいるかもしれない、と思ったことがあるかもしれません。


 人によっては、これを「あたしには、どこかにあたしだけを愛してくれる王子さまが存在するんだ」と思い込んで・・・、いや失礼、思っていることがあるかもしれません。


 さあ、どうでしょう。愛や恋や、運命の相手は神様のような存在によって決められるのでしょうか?


 もし、そうした相手が存在するのだとすれば、あなたの人生の「ある一部分」は、その相手と巡りあうために使われるべきだと思います。人生に注ぐエネルギーのうち、多くの部分を愛のために使ってもいいんじゃないかな、と思いますよね。


 たとえば、誰か好きな人を追いかけて、違う土地に行ったり、仕事を辞めたり、そういうエネルギーを愛のために使う行為も、悪くはなさそうです。


 そこまでではなくとも、「運命の相手と恋をして、愛し合って、子どもを作って家族となり、孫が生まれて子孫まで幸せにくらしましたとさ」、という人生を送りたいと誰もが頭の片隅で願うことでしょう。


 その一方で、現代の私たちの周りを見回すと、「離婚」したり、お父さんかお母さんの一方しかいない片親だったり、親が再婚して再婚相手に虐待されたり、なんて「愛を取り巻く諸問題」が渦巻いていることも知っているはずです。


 結婚する前にも「彼氏に束縛される」とか「彼氏にDV(ドメスティックバイオレンス)される」とか、「彼女だと思っていたら他に男がいた」とか「ブランドバッグを貢がされた」とか、それはもう、「愛を取り巻く大問題」も渦巻いているのです。


 就職しても非正規社員なので、結婚なんてしばらくできそうもない、という人たちもいます。今高校生のあなたたちが、もう数年後には、そういった人生のレールに乗っているかもしれません。


 とにかく、これは大変な事態です。


 この世界には、どうやら「運命の人とめぐり合えた人たち」と、「運命だと思っていたけれど、違った人たち」と、「運命の人に巡り合えない人たち」と、そもそも、「誰とも付き合わなくていいや」という人たちの4種類ぐらいいそうですね。


 あなたは、どのパターンを選ぶことになるのでしょうか。






2014年10月10日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書06】人生を決めるのは誰か

 前回の説明で、あなたの体の中に流れている遺伝子やDNAが、あなたの苗字と大きく離れていることをお話しました。


 それでも、あなたは現在の苗字を名乗らなくてはいけないし、結婚してさらに子孫に伝達するか、あるいは配偶者の苗字を名乗るか、ということになるわけです。


 これも「既に決まっていてどうしようもないこと」のひとつです。私たちは自由な社会の中で生活しているようで、そうではないこともあるという一例ですね。


 ところで、なぜ「苗字」の話をしたのでしょうか。それはあなたの「家」(家族)に関することだからです。


 この文章は「人生に関する教科書」ですが、実はあなたが生まれる前までは、「人生」というのは自分で決めるものではなく「家・家族・家父長・家柄」によって決められていた時代が長くありました。


 あなたは自分の人生をあなた自身で決めるチャンスがありますが、あなたの先祖の大半は、自分で決めることができない人生を送っていたようなのです。もういちど、あなたの先祖を確認してみましょう。


 あなた・お父さん(お母さん)・おじいさん・ひいおじいさん・ひいひいおじいさん・ひいひいひいおじいさん・ひいひいひいひいおじいさん


 これで、あなたを合わせておなじ苗字の7代の家系を拾い出しました。ちょっとずつ、あなたの先祖の人生をタイムスリップして見てみましょう。


==========


 あなたのお父さんは、あなたから見て「おじいさん」が土地を持っていたかいなかったか、によって人生を大きく変えられています。


 あなたのおじいさんも、同じように「ひいおじいさん」が土地を持っていたかいなかったか、によって人生が変わっていました。


 まあ、基本的にみーんなそうなので、ちょっと違う視点も混ぜてみましょうね。


 あなたのお父さんの世代は、前にも少し話しましたが同級生がやたらたくさんいた世代なので、「常に競争」が起こっていました。
 進学するにも、就職するにも競争だったので、いい学校・いい会社に入れた人とそうでない人がたくさん分かれました。
 この頃には既に、都会と田舎がはっきりわかれており、大きい会社はみな都会に出来ていたので、人々はサラリーマンになるべく大勢都会に出てゆきました。
 つまり、基本的には都会の人口が増えて、田舎の人口が減る動きが起こっていた、ということです。




 あなたのおじいさんの世代も、基本的にはお父さんの時代と似ています。人口が多く、田舎から都会へ、という動きも同じです。ところが、大きく違うのは、あなたのおじいさんの世代の少し前まで、日本は戦争をしていて、そして負けたということです。


 日本は焼け野原で、なーんにもなく、社会はボロボロでした。そこから、日本人はいろんなものを作って、外国へ商品を売って、経済的に発展したわけですが、なぜそれが出来たかといえば、日本がボロボロで賃金も安かったからです。


 ちなみに、あなたのお父さんが就職してはじめてもらった給料は、18万円くらいだったはずですが、おじいさんが就職してはじめてもらった給料は3万円くらいでした。


 3万円が18万円になるくらい、この間に日本は経済成長をしたのですが、逆の言い方をすれば、賃金が3万円で安かったので、世界中から仕事が舞い込んだということでもあります。


 ついこの間まで、中国や韓国といったアジアの国は賃金が安かったので、給料が高くなってしまった日本から仕事がどんどんなくなりました。まあ、今はそんな状況です。


 給料が3万円から18万ということは6倍です。おとうさんとおじいさんの世代の違いで6倍もお金が増えるのであれば、おとうさんの給料に比べてあなたは18×6=108万、初任給は108万円もらわなくては割がありませんね。


 でも、それは確実にムリです。あはは、笑うしかありません。


 

 あなたのひいおじいさんの時代は、戦争中でした。戦争中なので、「人生をこうしたい」とか「ああしたい」とか自由はありませんでした。多くの人は徴兵されて、海外で戦わされて、死にました。人生もクソもなかった時代を、とにかくありとあらゆる手段で生き延びたのが、あなたのおじいさんの時代だったのです。




 あなたのひいひいおじいさんの時代は、江戸時代から明治に切り替わり、戦争へと日本が突き進んだ時代でした。この頃は、人生を決めるのは常に「その家のお父さん」でした。家父長制度と言いますが、一族の中で「お父さん」が常になんでも決める決定権を持っており、子供達はそれに従うのが当り前だったのです。親が「こうしろ」と決めたことは、その通りしなくてはなりません。そういう意味では、ひいひいおじいさんの人生を決めたのは「ひいひいひいおじいさん」だったかもしれませんね。



 そこから先は江戸時代です。人生は家柄で決まっていました。武士の子は武士になるように育てられ、農家の子は農家になるように、商人の子は商人として基本的に育ちました。自由はあまりありません。




 こうして見てゆくと「人生について悩むチャンスがある」のはせいぜいあなたを含めて3世代くらいしかないことがよくわかることでしょう。
 

 「自分で人生を決める」ことができたのは、おとうさんとあなたくらいのもので、それ以外の時代の人たちは、ある程度周りによって決められていたり、焼け野原から立ち上がったり、と苦労の連続だったのです。


 自由である、ということは、素晴らしいことです。しかし、反面この世界から「ほったらかしにされる」ということでもあります。「何をしてもいいよ。何を選んでもいいよ」ということは「好きにすれば?あんたなんかどうでもいいよ」ということとすごく似ています。紙一重、と言ってよいくらいです。


 なので、あなたがこれから人生を過ごしてゆくに当たっては、あなたの先祖たちの誰よりも自由であるがゆえに、「しっかり考えないと、ほったらかしにされる」ということでもあるのです。これは、とても怖いことです。



 こういうことを知っておいてほしいので、私はこの教科書を書いているわけです。
 






 

2014年10月9日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書05】あなたのお父さんのお父さん・・・は

 前回のお話の最後に、「これまでに起きてしまったことはしょうがない」みたいなことを言ったと思います。


 あなたは今の両親のもとに生まれてきてしまい、あなたは今の土地に住まざるを得ず、あなたは今の容姿で、あなたは今の能力を持っています。


 この世界で生きてゆく上で、どうしようもないことというのはたくさんあります。なぜ、それがどうしようもないのかは、「一つは土地のせいだ」ということもこれまでにお話しました。


 では、今回は、「あなたの人生」を考えるに当たって、あなたの先祖はどうやって生きてきたのかを考えてみたいと思います。彼らは、一応あなたにとっては「人生の先輩」です。どんな人であっても「あなたが過ごすかもしれない、人生の先例」となることは確かです。


 ですので、ここからはあなたのお父さんのお父さんの、そのまたお父さんの・・・。という視点でお話したいと思います。



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 ちょっとまって!どうして「お父さん」なの?「お母さんのお母さんの、そのまたお母さんの・・・。」でもいいじゃない!と女子のみなさんは怒り出すかもしれませんね。


 もちろん、その通りです。お父さんとお母さんがいなければ、あなたは存在しません。現代の世界の科学技術では、まだ「男性」もしくは「女性」の片側だけで子孫を増やすことはできていません。


 家族として一緒に生活している「お父さん、お母さん」はいない人もいるかもしれませんが、生物学的には、かならず父親と母親は存在する、というのがヒトの生態です。


 参考までにお話しますが、今これを読んでいるあなたは、必ず絶対確実に「何万年もこの世界の争いや災いや事件や変動の中で、生き残ってきたものすごい幸運の持ち主」であることは確かです。


 意味がわかりますか?たいていの人は、そんなことに気付きません。


 あなたが今これを読んでいるということは、あなたの一族の中で、あなたに繋がる家系が「第二次世界大戦を生き延びた」ということです。もし、あなたに繋がる誰かが戦争で死んでいたら、あなたは生まれていないからです。


 あなたが今これを読んでいるということは、あなたに繋がる誰かが「関東大震災に巻き込まれて死ななかった」ということです。「江戸時代の飢饉で飢え死にしなかった」ということです。
 「富士山の噴火で死ななかった」とか「戦国時代に戦いで死ななかった」とか、そういうことでもあります。


 そうです。あなたに繋がる誰かは、常に「死ななかった」のです。たくさんの人が争いや自然災害で死んでゆく中、あなたに繋がる誰かは「なんとか生き残った」のだということを覚えておきましょう。


 もっと言えば、あなたの先祖は「氷河期でも死ななかった」し「恐竜が絶滅しても、あなたの先祖になった生き物は絶滅しなかった」のです。


 もっともっと言えば、「地球に生命が生まれた時から、あなたの先祖の誰かはほんのわずか生き延びた生き物の中にいた」ということです。


 あなたは、地球上の生命誕生から、ずっとずっと「死ななかった小さな集団」の末裔です。


 あなたは、超ラッキーボーイ!もしくは超ラッキーガール!なのです。実は。



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 少子化が進んで、「生まれてくる可能性がない人たち」というのが今後増えることは、以前にもお話しました。あなたの同級生の中で、「結婚できない」とか「子孫を残せない」人たちがかなりの確率で存在することをお話しました。


 その人たちは、これまでのラッキー歴史が、そこでストップです。何万年ものラッキーは、いよいよそこでおしまいで、もうその人たちの子孫は、この文章を読むことはできません。残念。


 しかし、あなたは今の自分の人生がそこまで「ラッキー」だとはまだ思えないでしょう。せいぜい、普通か、あるいは「自分はいろいろ苦しんでいる」と思っていることだと思います。


 それはそれで大丈夫。オールオッケーです。人生のうちで高校生の時ほど苦悩する期間はありません。私もそうでしたし、きっと私の父もそうでしたし、私の祖父もそうだったでしょうから。


 ところで、話がかなり脱線しましたね。お父さんの話でした。お父さんだけではなく、お母さんももちろん大事なので、両親というものの話をしたのでした。


 ですが、あえてここはお父さんに絞ります。なぜか?それは、今これを読んでいるあなたが日本人・日本国籍だと仮定して、そしてほとんどすべての人に「苗字・姓」がついていると思うからです。


 あなたが外国から来た人であれば、ごめんなさい。少しの間、日本の仕組みを説明するので、付き合ってくださいね。


 ちなみに、あなたには「姓・苗字」がない、かもしれません。ほんのわずかですが、これを読んでいるあなたが皇族であるならば、一般の日本人についているような苗字がないからです。その場合は、この文章を読まずとも、人生はあらかた周囲のいろんな人の圧力で決められてしまうでしょうから、むしろ読まないほうが幸せかもしれません。



==========


 あなたにはどんな苗字がついていますか?


 日本人の場合、あなたの苗字はあなたのお父さんが継承して、その苗字になっていることが多いと思います。もちろん、お母さんが苗字を継ぐこともありますが、その一世代上ではお父さんが継いでいるなど、基本はお父さんを通して継承されることが大半です。


 あなたの一族がずっと、お母さんのお母さんのそのまたお母さんの苗字を受け継いでいるとしたら、ちょっと珍しいかもしれません。


 どうして苗字の話をするのか。


 それは、あなたの名前はいよいよあなたの生活に不具合があったり、問題続きだったりしたら「あなたの自由意思で変える方法がある」のに対して、あなたの苗字は基本的には「変えることができない」からです。


 (名前は、家庭裁判所の改名手続きによって変えることができます。)


 苗字というのは、あなたがあなたの家族というグループに属していることの証として使われます。一般的には、「あなたのお父さんの家のグループ」に属することを示すために、あなたの苗字はお父さんの苗字と一緒になります。



 歴史をたどれば、明治8(1875)年に「平民苗字必称義務令」という命令が出て、日本人は全員苗字を名乗ることになりました。ということは、あなたの苗字は2014年現在で最低139年遡ることができる、というわけです。


 (もっと昔から苗字を名乗ることを許されていた人たちもいますが、それは江戸時代の身分制度にかかわることなので、ここではスルーしておきましょう)


 あなたの苗字が「佐藤」さんであると仮にしましょう。現在高校生のあなたのお父さんは40歳から50歳ぐらいかもしれません。あなたのおじいさんは、仮に当時の人が25歳前後で子どもを作ったとすれば、65歳から75歳くらいになる、ということですね。


 139年をこの考え方で割ってゆくとどうなるでしょう。


 40+25+25+25+25+25=140ですから、「おとうさん」「おじいさん」「ひいおじいさん」「ひいひいおじいさん」「ひいひいひいおじいさん」「ひいひいひいひいおじいさん」ぐらいの時から、あなたの一族は「佐藤」さんだということになります。


 この最後の「ひいひいひいひいおじいさん」を仮にご先祖ですので「先蔵(せんぞう)」さんだったとします。(親父ギャグです)


 明治に「佐藤先蔵」を名乗ったあなたのご先祖がいました。この人を初代とするとあなたは7代目になります。


 あなたはもちろん、佐藤○○くん、佐藤○○さんですから、立派な佐藤家の一員であり、佐藤家の子孫です。あなたは何の疑いもなく自分は佐藤くん、佐藤さんだと思っているはずです。


 
 ところが、実はおかしなことが起こっているのです。


 それはどういうことか?


 先蔵さんには奥さんがいて、子供ができます。その人にも奥さんがいて子供ができます。つまり、血縁・DNA的にはつながりは半分になるということを、もしかしたら中学校の理科の時間で習ったかもしれません。


 あなたは7代目ですから、先蔵さんの遺伝子・DNAをどれくらい受け継いでいるかといえば、半分が7回ですから、1/2を7回くり返した数字になります。


 それは、1/32ですので、パーセントに直せば3..125%という数字です。


 3.125%って何?どういうこと?


 と、あなたはまだピンと来てないかもしれませんね。あなたの遺伝子のうち3%だけが佐藤さんの遺伝子で、残り97%は他の家の人の遺伝子だということです。


 つまり、あなたの体の97%は佐藤さんじゃないのに、あなたは「佐藤さん」を名乗っているということです。すごいでしょ?!


 これが、日本で暮らし、日本人であるということの一側面なのです。あなたはすでに「ほとんど佐藤じゃない体なのに佐藤に支配されている」わけです。嫌な言い方をすれば。


 あなたが何も疑わず「佐藤だれそれ」として生きているとすれば、実はあなたの人生の中身の大半は「佐藤じゃなかったんだ!」ということなのです。


 

2014年10月5日日曜日

【高校生のための”人生”の教科書04】土地があるということ、土地がないということ

 前回は人生には、大きく分けて「土地を持っている人生」と「土地を持っていない人生」の2通りしかない、という話をしました。


 そして、これからのあなたの人生が土地とどう関わるかは一先ず置いておいて、それでもあなたのこれまでの人生と土地はどうやら関わっているらしい、という話をしましたね。


 ですので、まずは土地がなぜそんなに重要なのか、を話しておきましょう。


 
 土地、というのは人が住むための場所です。基本的には。自分がこの地球に生まれて「そこにいていいよ」「そこで生きていていいよ」と自他共に認める場所がなければ、とても不安だろうことは想像がつきますね。



 もちろん、世界には遊牧民のように移動して暮らしている人たちもいますが、遊牧で移動していても、その土地はおなじ国内であり、「そこにいていい」という保証があるから移動できるわけです。



 世界中どこを探しても、よその国へでかけていって、その土地の牧草を勝手に家畜に食べさせたりすることで暮らしている民族はいません。残念ながら、そんな暮らしをしている人たちは真っ先に「土地を持っているその地の人たち」によって滅ぼされてしまうでしょう。




 世界中のすべての紛争は、土地をめぐって発生しています。戦争はすべて土地がらみです。



 日本で言えば、竹島の問題や尖閣諸島の問題が外国との摩擦を生んでいますが、あれも当然土地問題だと言えます。



 土地をめぐって人が殺されたり、殺したりする。それほどまでに土地は重要なのです。



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 少し話がワールドワイドになってしまいましたが、「土地」は住むところという意味だけでなく、別の側面も持っていることを説明しておきましょう。



 それは「お金になる」あるいは「別の価値を生む」ということです。



 田んぼや畑であれば農作物を作ることができます。食料を生み出します。宅地であれば、売り買いすればお金になります。なので土地を持っていることは「お金と密接に関係する」わけです。



 前回までの記事で、あなたがなぜあなたの町で暮らしているかを話しました。それは土地のせいなのですが、それだけでなく、あなたの暮らしぶりも土地に大きく関わりがあります。



 都会の中に土地を持っていたお父さんは、その土地にアパートを建てたり、駐車場にしたりして小金を持っているかもしれません。


 田舎に田んぼを持っているお父さんは、赤字なのに米をつくらなくてはいけないかもしれません。


 マンションを買ったお父さんは、住宅ローンの支払いに悩まされているかもしれません。


 賃貸住宅に住んでいるお父さんは、ずっと家賃を払い続けなくてはいけません。



 すると、当然、子どもであるあなたの暮らしぶりにも影響が出てきます。土地があるほうがいいのかないほうがいいのかは、そのお家の状況次第ですが、必ずあなたの暮らしぶりに関係が出てくるのです。



 それは、「経済・お金の問題」に変換されて表面に出てくる、ということですね。



 土地は住むためだけでなく「経済の問題」つまり「資産や負債」としても人生に関わってきます。売れない山奥の田んぼばかり持っている人もいるし、地主として収益を得ている人もいます。


 あなたはそうしたお父さんたちの子どもですから、いずれそれらの利益や負債を受け継ぐことになるかもしれません。


 あるいはそうしたあなたのお家の家計の状態によっては、「大学へ進学できる、できない」「留学できる、できない」「資格をとれる、とれない」といった人生の選択肢と関わってくるのです。


 これはたいへんなことですね。あなたの努力とは無関係に、そうした状況が生まれているのですから。



 ですが、こうしたことは「すでに起きてしまったこと」なので文句が言えません。あなたを取り巻くいかなる状況も、基本的には文句が言えないので、あなたの人生でどうにかしなくてはならないのです。


 なので、あなたは人生において「あなたがどうしたいか、あなたがどうするのか」ということを考えなくてはなりません。


 お父さんやお母さんがいま「そうなっている」ことは、あなたのお父さんやお母さんの人生においてそうなってしまっているので、それはこの際どうしようもありません。


 で、あなたは、どうしますか?


ということなのです。

 

2014年10月4日土曜日

【高校生のための”人生”の教科書03】人生はたった2通りしかない。ほんとうに?

 前回、とりあえずあなたは今この日本に生まれていて、それがなんとなくだけれど「マシ」そうだ、というところまではお話しました。



 しかし、それだけでは、これからの人生を有意義なものにしたり、楽しいものにしたりはできそうにありません。



 なので、もう少し、これからの人生について「つっこんで」話をしてゆきましょう。



 これから、世界中で誰もそんな話を教えてくれたことがないようなとっておきの話をします。ちょっと、びっくりするかもしれませんが、ひとつの考え方としてまずは聞いてくださいね。



 人生は2通りの人生しかありません。



 たった2通りです。



 哲学的な言い方をすれば、「そりゃ、良かったと思える生き方と後悔だらけの生き方だろ?」みたいなチャチャを入れる人がいるかもしれませんが、そういう難しい話をするつもりは全くありません。



 もっともっと単純なことで、明快なことです。



 それは、



 「土地を持っている人生」と「土地を持っていない人生」



のたった2通りです。



 なあんだ!そんなことか、と思うかもしれません。それじゃあ、「車を持っているのと持っていないの」とか「スマホを持っているのと持っていないの」とおんなじような話じゃないか、と思うかもしれません。



 ところがそうではないのです。このたった2通りの人生は、日本だけではなく「世界共通」のお話です。たかが「土地があるかないか」だけでなく、それがあるかないか、で人生は大きく変わってしまうし、大きく発展したり狂ってしまうかもしれないのです。




 あ、もちろんここで最初に断っておきますが、「土地をもっているといい人生」「土地を持っていないと悪い人生」だと決めないでください。逆の場合だってありえます。いいか悪いかは、ひとまず横に置いておいて、とりあえず「土地を持っている人生とそうでない人生の二通り」があるんだな、と覚えておきましょう。



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 これから説明することは、単純なんだけれど一筋縄ではいきません。土地があるかないか、という簡単な話の裏に、いろんな面白いことが隠れているからです。でも、おそらく全ての日本の人(ひいては世界の人)が、この問題で人生を変えてきたのです。



 まず、あなたがどうして今そこに住んでいるのかからはじめましょう。



 あなたは都会に住んでいますか?田舎に住んでいますか?



 都会に住んでいる人は、便利な生活を楽しんで、高校生ぐらいになると学校帰りにいろんなショップへ寄ったり、買い食いしたりして過ごしているでしょう。


 田舎に住んでいる人は、「もうちょっと便利だったり、好きなお店が近くにあったりすればなあ」と願っているかもしれません。



 都会、田舎と単純に言っていますが、都市の中心部と郊外のベッドタウンで便利なところは違いますね。田舎でも電車ですぐに都会に出られるところもあれば、隣の家まで数キロも離れているところもあるでしょう。



 でも、なぜ自分がその町に住んでいるのか、考えてみてください。



 それは簡単です。あなたのお父さんやお母さんが「土地を持っているかいないか」で決まっているのです。


 ほら、出てきたでしょ?土地のあるなし、が。



 なぜ、あなたが今その場所にいるのか。それはすべてあなたの親が「土地を持っている人生」だったか「土地を持っていない人生」のどちらだったかに影響を受けています。


 いくつか例を挙げてみましょう。



 あなたのお父さんは長男で、先祖からの土地を受け継いでいる。だから「田舎にいる」こともあるし、偶然「都会の真ん中に土地があった」こともあるでしょう。でも、いずれにせよ、お父さんはそのまたお父さんが「土地を持っていたかいなかったか」の影響を受けています。



 あなたのお父さんは、長男ではなく、実家の土地や田んぼや畑は「おじさん」に当たる人が継いでいるかもしれません。なのであなたのお父さんは、他所の町へ移って「今は土地を持たずに賃貸住宅に住んでいる」か、あるいは「新しく家やマンションを買って土地を持っている」かのどちらかです。


 
 繰り返しますが、土地を持っているからいい人生なのか、土地を持っていないから悪い人生なのかは関係ありません。



 お父さんは「土地を持っていたからそこにいる」のか「土地を持っていなかったからよそへ行った」のかが第一のポイントです。



 そこで、あなたのお父さんの人生は変わってしまったのです。



 ちなみに、あなたがお母さんとだけ暮らしている場合は、多くの確率で「土地を持っていない」ことのほうが多いでしょう。


 日本では、土地を受け継ぐのは、男性の方が圧倒的に多いからです。


 ということは、おかあさんの場合は「土地があるので、ここにいなくてはならない」理由があまりない、ということでもありますね。



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 さきほどはあなたの親の人生について考えてみました。じゃあ、あなたについてはどうですか?


 「親が土地を持っているから、それは自分が受け継がねばならない」というあなたは、それを実行する人生を選ばなくてはなりません。多少寄り道をしても、その土地をあなたはどうにかしなくてはならないのです。


 「親が土地を持っていない」というあなたは、ある意味では自由です。どこへ行ってもかまいません。日本にいなくてもOKです。ですが、あなたのお父さんぐらいまでの世代の人はみんな「新しい自分の土地が欲しい」と思って生きてきました。それが叶った人もいるし、叶わなかった人もいます。
 ですが、たいていの人がそう思ったので、新しい一戸建てが建ったり、マンションが建ったりしているのです。



 あなたは、まだ高校生なので、「土地を持っている人生」と「土地を持たない人生」のどちらを選ぶかは決める必要はありません。



 しかし、あなたのこれまでの人生は、お父さんの「土地を持っているかどうか」によって、すでに左右されてきていることを頭の片隅においておきましょう。



 あなたのお父さんが土地を持っている人は、「もしお父さんが土地を持っていなければ、自分はこの町で暮らしていなかっただろう」と思って正解です。


 あなたのお父さんが土地を持っていない人は「もしお父さんが土地をもっていたら、自分はこの町で暮らしていなかっただろう」と思って正解なのです。



 人生は、そんなことで大きく変動する、ということです。






2014年10月3日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書02】第一章 あなたが生きているということ

第一章 あなたが生きているということ


 ”人生”ってなんだろう。自分の”人生”はこれからどうなるんだろう。”人生”をより良く生きるためには、どうしたらいいんだろう。



 そんな疑問は、全ての人が持っています。あなたのような高校生は、これから自分の進路を決めてゆかねばならないので、余計にそんな疑問を抱くことでしょう。


 
 もちろん、高校生になる前から、人生について考える人もいるし、もう少し遅い時期に、それを考え始める人もいるでしょう。でも、人は誰でも、自分の人生について考えることになる、というのは共通だと思います。



 そこで、まずはじめに、”あなたが今ここに生きている”ということについて、おさらいをしておきたいと思います。



 あなたは今、高校生としてこの日本で生活し、生きています。しかし、それは当たり前で当然のことではありません。



 というのも「世界には195もの国」があり、その中でも2014年現在で「世界で3番目にお金を稼いでいる国」に生まれるということは、ベタないい方をすれば『当たりかはずれ』でいえば確実に『当たり』だからです。



 お金持ちの国に生まれるのか、貧しい国に生まれるのかは、スタートの段階で大きな違いです。



 あなたがどの国に生まれるのかは、人生ゲームのルーレットのように偶然に決まるものだとしましょう。だとすれば、あなたの人生は、生まれた時点でかなりラッキーなものだったと言えるのです。




 生まれてからも、試練は続きます。



 生まれたばかりの赤ちゃんが亡くなる確率は、日本では1000人に1人で、世界でもっとも低い死亡率の国のうちのひとつです。



 世界で最も乳児死亡率が高い国は、2010年の時点ではソマリアで、1000人のうち52人が亡くなっています。



 世界を平均すると1000人のうち23人が亡くなるという数字になります。





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 もう少し興味深い話をしましょう。



 あなたは今、生まれて確かにこの世界に存在していますが、すこし時期がずれていたら、もしかすると「生まれている」ということさえなかったかもしれません。



 あなたは生まれているけれど、これからはあなたと同じように誰かが生まれるとは限りません。



 私は、戦後の第二次ベビーブームという時代に生まれました。なので、簡単に言えば、「タメ」「同い年」である同級生がたくさんいた、ということです。



 私の父や母は、第一次ベビーブームという時代に生まれています。なので、私たちよりもっと多くの同級生がいた、ということになります。



 (ちなみに、第一次ベビーブームの出生数は1949年の269万6638人、第二次ベビーブームの出生数は1973年の209万1983人がピークです)




 あなたの年代、今の高校生が生まれた頃の出生数は約102万人です。ということは、あなたの同級生は、私の同級生にくらべて半分しか「生まれてくることができなかった」という考え方をすることもできますね。



 同じことを別の見方で見てみましょう。私のお父さん、お母さんが生まれてきたときは、きょうだいの数が自分も含めて平均で4.5人もいました。

 

 それが、あなたの年代では、きょうだいの数はあなたも含めて約1.3人しかいないことになります。



 これが、いわゆる「少子化」ということなのですが、少子化がもっと進めば、(つまりきょうだいの数があなたを含めて1を下回れば)「あなたは生まれてこない」という時代がやってくるということです。



 そうなると、このお話もこの段階でジ・エンドですね。生まれてこない人に、この文章は読めません。残念。



 冗談のように書いていますが、これは真面目な話です。私のお父さんとお母さんは、結婚して私を生みました。私も結婚してこどもを授かりましたが、今の男性の生涯未婚率は20%です。



 つまり、あなたが結婚する確率は5分の4であり、あなたの同級生のうち5人に1人は結婚しないので子孫が生まれない、ということになるわけです。



 あなたはなんとか生まれてきましたが、あなたの子孫が続く保証はない、ということです。



 とりあえず、「お、僕が私が生まれてきたのは、どちらかと言えばラッキーだったのかな」くらいに思ってくれれば、まずはOKです。



 ちなみに、この文章を読んでいる人たちの中には「自分は生まれてこないほうが良かった」と感じている人がいるかもしれません。



 そういう人は、「この国に、今生まれてこないほうが良かった」のと、もしかしたら「貧しい国や戦争状態の国に生まれてきてしまった」のとどちらがマシだったか考えてみてください。



 たいていの人は、「内戦状態の国に生まれてしまった」とか「難民キャンプで生まれてしまった」とか、「生まれたけれど数週間で死んだ」とかよりは、ちょっとだけ今のあなたの境遇のほうがマシそうだと思うと思います。



 そうです。たぶん、きっとおそらく、今のあなたの境遇は世界の中でもマシなほうなのです。それがどんなに辛い境遇だったとしても。



 

 

【高校生のための”人生”の教科書01】はじめに

 ”人生は教科書通りにはいかない”

ということは、大人でも子どもでもなんとなく気付いていることだと思います。



 それでも、あえて「人生の教科書」を作ってみようと思ったのには、わけがあります。



 これから複数回に渡って書くこの『高校生のための”人生”の教科書』は、高校生になったばかり(と想定している)のあなたが、これから人生を生きていく上で、ちょっとだけ知っておいたほうがよいかもしれないことをまとめてみたものです。



 そして、これからここに書くことは、あなたがこれまで手にとって、これまで教えられてきたどんな教科書にも「書いていなかった」「教えられなかった」ことを中心にまとめています。



 もしかしたら、あなたのこれまでの人生とこれからの人生において、驚きがあったり、新しい発見があったりするかもしれません。



 ぜひ、それをこれからの人生の小さなヒントとして役立ててくれれば嬉しいと思います。



 あなたより少しばかり長い人生を送ってしまっている 吉家孝太郎 より。