2014年11月13日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書24】 エサを探すのはなぜつらいのか

 前回は、すべての仕事は「狩猟採集的もしくは農業的」であるというお話をしました。


 そして、その原点になっているのは「エサをゲットする」ということに他ならない、ということも説明したと思います。


 人間をはじめ、すべての生物はエサをゲットしなくては生きてゆけません。そして、エサは、誰か神様のような存在が向こうから勝手に与えてくれるわけではなく、偶然の世界に飛びこんでいって探してくるか、小さな時からこつこつ育てるかしかないわけです。


 狩猟採集では、確率論に左右されます。採れるか、採れないかは常に2分の1の確率です。

 農業では、確率はアップしますが、時間がかかります。今日植えて明日収穫はできません。


 ですから、人が生きてゆく上では、この2つはやはり無くてはならない仕組みだと言えます。一方だけでは、現時点では飢える可能性が高いからです。




 したがって、人類をはじめたいていの生物のプログラムには、「飢えに対する備え」が組み込まれています。たとえば、人はたくさんの食べ物を食べた時に、余分なエネルギーがあればそれを「脂肪」として蓄えようとします。


 ラクダのこぶのようなもので、ああやって脂肪を蓄えておけば、エネルギーが減ってもなんとかそこから補填できるからですね。


 人間は飲まず食わずでも、1週間ぐらいは(ヘロヘロになりますが)生き残ることが可能です。それは、人間に「蓄える」機能が元から備わっているからです。


 さて、人間や生物に余計なエネルギーを捨てる機能ではなく、蓄える機能が備わっているのはなぜでしょうか?


 それは簡単で、エサをゲットするのは基本的には楽ではなく、確率的には低いものだからです。


 人が、もともとエサをらくらくゲットでき、いつでもそこらへんにエサが転がっている生活をしていたなら、人には脂肪を溜め込む力ではなく、余剰を吐き出す力が備わっていたことでしょう。


 しかし、現実はそうではありません。ですから、仕事というのは本来難しくて、楽ではないわけです。


 私たちは、食料にありつくことが昔に比べて格段に楽になっていますので、エサをゲットすることの大切さを忘れていますが、その変化形として「仕事のつらさ」を味わうようになっています。


 仕事は、基本的につらいものです。それはエサ探しが原点だからに違いありません。




 同様に、仕事で成果があったり、給料をもらったりすると嬉しいのは、「エサをゲットした」喜びと同じであるから、ということになります。


 基本的に私たちは飢えていますから、エサを手に入れるとそれだけで無上の喜びを感じます。ですから、仕事をやり遂げると嬉しいし、給料日はさらに嬉しいわけです。


 あるいは、就職活動を控えた学生を想像してみてください。内定をもらえないと大変ナーバスになってしまいます。エサが見つからない恐怖そのものです。


 リアルな食事くらいは、コンビニバイトで食いつなげるのですから、飢えを恐れることはありません。しかし、正規の仕事が見つからないことは恐怖です。それは、エサが安定的にゲットできないことを意味すると、誰もが本能的に知っているのです。


 

2014年11月12日水曜日

【高校生のための”人生”の教科書23】 第五章 仕事をするとはどういうことか

 高校生のみなさんは、早い人では卒業してもう社会人になって仕事をするかもしれません。大学等へ進学する人でも、いずれは社会に出て「仕事」に就くことになるのが大半ですから、この章では


「仕事をする」


というのは、いったいどういうことなのかを考えてみたいと思います。


 ”なんのために仕事をするのか”


といった問いかけは、いつでもどこでも考えさせられるものです。お金を得て生活をするため、とか、社会貢献のため、とか、自己実現や成長のため、とかいろんな考え方ができるでしょう。


 しかし、ここでは最も原点に返ってみたいと思います。それは、人類に限らずあらゆる生物に共通である


「食物を外部から摂取して、生きてゆく」


という事実です。仕事とは、何よりもその根底に、「エサをゲットする」という究極の目的があることを覚えておくのは大事なことです。


 なぜ、こんなことをお話するのかといえば、この「人生の教科書」の第一章で確認したとおり、私たちは日本というかなり恵まれた国に生まれていますので、文明や社会が高度に発達してしまったせいで「エサをゲットする」という本来の目的が、いろんな考え方で上塗りされてしまっているから、もう一度原点に戻ろうと思うわけです。


 あなたが飢餓状態にある国に生まれたとしたら、「自己実現がどうのこうの」とか言っている暇はありません。とにかく食べられるものを食べて、生き残らなくてはならないわけです。


 あなたが戦争状態にある国に生まれたなら、「8時に会社に行かなくては」という以前に、町は砲撃で破壊され、明日会社が存在するかどうかもわからないわけです。


 あなたが独裁政権の国に生まれたなら、「社会奉仕」ではなく「独裁者に奉仕」することが生き延びる秘訣になるかもしれません。


 いずれにせよ、仕事をするということの本質はそうした甘っちょろい幻想ではなく、まずは


「おまんまを食べる」


ということに集約できることに、今気づいておくべきです。



 仕事をするということ。つまり、エサをゲットするということについて、人類は大きくわけて2種類の方法を生み出してきました。


 ひとつは、狩猟採集の方法です。野や山、海からエサを探してきて捕まえる、拾うという原始的ですが、今でも立派な仕事として成立している仕組みだと言えます。

 
 『まつたけ』というキノコは、ほぼ農作物として植えて育てる方法ではゲットできません。どこかマツタケ山に行って、生えているのを採集してくることで仕事が成立しています。


 漁業にも、養殖できる魚もありますが、うなぎなど「とにかく偶然に左右されながら漁で捕まえてくる」しかない海の幸もたくさんあります。


 狩猟採集は、原始人の仕事ではありません。現代でもこの方法は、さまざまな形で生き残っている重要な「エサをゲットするしくみ」なのです。


 もうひとつは、ご存知の通り「農業」という形で人為的に育てる方法です。たんぼやお米を見慣れている私たちは、「農業」によって「エサをゲットする」ということを長い歴史の間に大切にしてきました。


 農業によって、偶然によって収穫量が違ってしまう「漁・猟」から少し進歩して、安定的に「エサをゲットする」ことができるようになったので、私たちの暮らしはやや楽になりました。



 仕事というのは、繰り返しますが根っこの部分は「エサをゲットするしくみ」そのものですから、狩猟採集なのか、農業なのかの2パターンしかありません。


 ひらたく言い直せば「そこらへんに仕事が転がっているのを、偶然的に拾ってくる」仕事と、「定期的、安定的に何かを生産して、それで食べてゆく」仕事の2通りしかないわけです。


 あなたが将来就くであろう職業も、大きく分けるとこの2つに集約できます。


 メーカーに勤務して、サラリーマンになる人は、ざっくり言えば「農業的」です。計画的、安定的に何かを製造して、それを順次出荷することでお金を手に入れるという意味で、農業に似ています。


 太陽光発電のセールスマンは狩猟採集に似ています。どこの誰が「工事して」と頼んでくるかは決まっていません。偶然の顧客によりたくさん出会うために、家々を訪問したり、電話をかけたり、ショッピングモールでイベントをやったりして仕事を拾います。


 モノを書く職業でも、新聞や雑誌の編集に携わる人は、定期的にそれらのメディアを発行してお金にしますから農業的です。


 おなじモノ書きでも、フリーのライターは、いつでもどこでも飛んでいって「仕事を探し、もらってきて」記事を書きますから、狩猟採集民です。


 スポーツ選手の大半は、狩猟採集生活を送っています。すべては運と実力と成績が人生を左右します。


 水道局に勤めていれば、おそらく半永久的に人類は水道をつかうでしょうから、仕事が亡くなったり、変動したりはしないでしょう。


 おなじ公務員でも、消防局勤めは、給料は農業的にもらえますが、火災そのものは偶然で突発的に発生しますから、仕事そのものは狩猟採集的だと考えられます。



 というわけで、高校生のあなたが将来仕事をするときには、「その仕事の狩猟採集的要素、その仕事の農業的要素」について考えておくと、きっと良いことがあると思います。


 あなたが、バクチ打ちではないのに、狩猟採集的要素の高い仕事についてしまうと後悔するはめになることもあるでしょう。


 たとえば、安定していると思い込んで原子力発電に関わる仕事についてしまったとしたら、原子力の仕事は事故のせいで一気に激減してしまったりするわけです。


 逆に、狩猟採集的要素の高い仕事についたことで、高い給与を手にいれることだってあります。ITブームに乗っかるとか、不動産バブルに乗っかるとか、そういう仕事でウハウハな時代をすごした先輩もたくさんいるからです。


 しかし、重ねていいますが、仕事には「狩猟採集的要素、農業的要素」の2つが存在していることは、やっぱり大事なことなのです。

2014年11月8日土曜日

G型大学とL型大学をめぐって ~教育再編の裏話・密かに話されていたこと~

 ここのところ「高校生のための人生の教科書」を勝手に連載中ですが、興味深い話が飛び込んできたので、一時中断して書いておきます。


今週ぐらいから、各ネットニュースサイト等で話題になっていますが、


 G型大学 L型大学


なるキーワードが盛り上がっています。


 どういう話かといえば、これらの大学教育は、グローバル(G)・世界に通用する人材を育てるための大学と、ローカル(L)日本国内で仕事をする人材を育てるための大学にわけようじゃないか、という議論です。


THE PAGEさんのサイトより


現代ビジネスさんのサイトより



 詳しい話は、いろんなニュースサイトにあるので、そちらを見てもらえばいいのですが、私はあんまり表に出てこないネタをお話します(笑)


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 今回のG型大学とL型大学の話は、単純化すれば以下のようなことです。


①東大をはじめとした、一部の優秀な大学において「教養」をベースにしたアカデミックな「学問」を勉強させるべきであり、そこから世界で活躍できるような人材を輩出する。


②それ以外の中程度以下大半の大学については、「仕事の実務」に役立つような中身を授業で教えて、実務を担う人材を輩出する。


③その比率は、議論はあろうが、ざっと言えば、5%の優秀な人材と残り95%のその他大勢くらいのイメージ。


みたいな。


 まあ、こういうイメージに対して賛成派と反対派がやりあっていて面白いです。


賛成派>実際問題、アホみたいな大学ができすぎていて、彼らがまともに仕事の実務にさえつけないのであれば、職業訓練も視野に入れてしかるべきである。

反対派>大学は専門学校じゃない。大学で純粋学問を教えなくなったら終わりじゃないか。


みたいな。


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 この話、いきなり聞かされるとみなさんのように「ああでもない、こうでもない」と意見を言いたくなるのですが、私からすれば、


 こんな話は20年前から実はスタートしているのだ


という事実をぶっちゃけてしまいたくなります(ウフフ) おせーよ。


 どういうことかといえば、私は当時、某公立の高校で勤務していましたが、その頃から、まず


高校教育の段階で、数パーセントのトップ校と、それ以外の学校に分ける


ということを文部省が画策しているという話が出ていました。


 高校の序列化は、すでに完成しており、都会に住んでいる人であれば


「私立のトップ校」「公立の二番手」「公立のふつうレベル」「私立の底辺」


みたいな学校のランク分けが成立していることを知っていると思います。


ところが、これは大都会だけで、47都道府県のうち、東京や大阪といった大都市以外の県では、


「公立のトップ校(旧制中学・女学校の流れ」「公立の二番手」「公立のふつうレベル」「私立の底辺」


みたいな状態になっているわけです。


 というわけで文部省のイメージとしては、これをもう少し明確化して、上位層とそれ以外を切り分けて、提供する授業内容を変える、ということを実はスタートしているわけです。


「数パーセントの頭のいい子を作り、そいつらに国をひっぱってもらう」


という発想。それがこの問題の根幹部分なのですが、実は大学以前に高校でそれをやりはじめていたわけです。


 具体的には、「スーパーサイエンスハイスクール」とか「スーパーイングリッシュハイスクール」などの指定がそれに当たります。


 なぜ科学と英語なのか。それこそ「グローバルに活躍し、新しい研究イノベーションによって国力を維持できる人材」とピッタリ符合すると思いませんか?


 まかり間違っても「スーパー日本史ハイスクール」とか「スーパー国語ハイスクール」とか「スーパー体育ハイスクール」ではないのです。

 だって、そんなのでは国をひっぱっていけませんから!



 また、ふつうレベルの高校には、やたら選択授業を増やして、極端な話「職業訓練のまねごと」みたいなことをしたり、パソコン教室でエクセルを学ぶ的な授業は、すでにさんざんやりはじめているわけです。



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 こうして、既に20年前から実現に向けてじわじわやってきたことを、いよいよ本丸である大学教育に持ち込もうとしているのが今回の話であって、今頃それが「いいのか悪いのか」なんて議論しても遅いことは否めません。


 すでに、外堀は埋められているわけです。


 家康の大阪城作戦に匹敵する、文部省の思惑は以下のように進んできました。



① 高校レベルでの差別化。(中等教育において「横並び」をやめる)


② 専門学校・短大を4年生大学に移行するようにサポートする。(このせいで、専門学校や短大がごっそり減りました)


③ わけのわからん大学教育を認可。(観光学部とか、スポーツマネジメント学部とか、いわゆる純粋学問以外の学部開設を許可)



 すでに、「大学教育」という名前ではあるけれど、実際のレベルが大きくことなる状況が、お膳立てとして作られているわけです。


「東大法学部生」と「なんちゃら大学ビジネスサポート学科生」が、おなじ重みの「学士卒業証書」
を持っているのが今の状況ですが、これが


同等(の価値がある)


と思っている人はこの日本には誰1人としていません。そこがまたミソです。


 つまり、みんなが「大卒の重みが、実はレベル差・ランク差があるよね」と思っているところに、ぶち当ててきているのが


G型大学・L型大学の提案


なわけで、提案どころか、実態はすでにそのレールに乗せられているわけです。わたしたちは。




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 とはいえ、そんな日本の国家戦略は別にして、私が個人的に思うのは、情緒的ですが


「大学では教養を学びたい」

「大学では学問をやりたい」

よね、やっぱり。


 そういう意味では、実務のために「大学を出て、専門学校で学びなおす」とかある意味「まとも」だしカッコよかったような気もします。

 今は、そういう選択肢が減ってしまっているのが残念なのですが。







2014年11月7日金曜日

【高校生のための”人生”の教科書22】 真の友人はたったひとりしかできないものである

 友だちについての最終章は、私からみなさんへ送る究極の名言でまとめてみたいと思います。


 それは、


 「真の友人とは、あなたの人生でたった一人いれば十分である」


ということです。


 また言い換えるならば、


「真の友人がたったひとり見つかれば、あなたの人生は最高に幸せだ」


とすることもできるでしょう。




 みなさんがイメージする「友だち」というのは、基本的にはこれから社会に出てゆくなかで「知り合い」レベルで無数に増えたり、「同僚」として近しい存在になったり、「取引業者」「おなじ業界人」といった形で触れることが増えます。


 そうした人たちと、ある程度仲良くやってゆくことは必要なことです。また、時には彼らのために何かあなたが無理を聞いてやる場面や、貸しを作っておいたほうがいい場面があったり、逆に、彼らによって何がしかの小さな問題を背負い込まざるをえなくなったりもします。



 しかし、そうしたいい面や悪い面をふくめて、彼らとの付き合いは「あっさりすっきり爽やかに」しておけばそれでいいことです。



 それに対して、あなたが本当にダメージを受けているときに心から親身になってくれたり、逆に彼や彼女が本当に落ちぶれているときにあなたが心から支えになれるような、そういう


「真の友人」


はめったに見つかるものではないし、もし1人そんな人と出会うことができたのであれば、あなたはとても幸福な人生を送ったことになるでしょう。



 いわゆる一般的な友だちとは、あなたが「笑顔を見せ合う相手」のことを言います。それは楽しい時間を共有できる人たちです。


 しかし、真の友人とは、互いが「涙を見せ合うことができる相手」のことを示すのです。それは苦しい時間を分かち合ったり、理解しあうことができる人たちのことを言うのです。




 多くの人は、中学から高校・高校から大学・大学から社会人へと進んでゆく中で、住む場所を大きく変えます。物理的に住む土地が変わると、「昔の友だち」とつきあったり、連絡を取り合う時間がこれまた物理的に減ります。


 そうした変移の中で、ふつうの友人たち・知り合いたちという人の顔ぶれはかならず変化します。ところが、真の友人の場合は、「物理的な場所や空間の距離」「時間の距離」と無関係につきあうことができます。



 どんなに離れていても、どんなに年月が経っていても、まったく気がねすることなく昔どおりに話すことができる相手が、真の友だちだと言えるでしょう。



 重ねて言っておきますが、友達の数はあなたの人生の何の評価にもなりません。友達が多い人生が「GOOD」で、友だちが少ない人生が「BAD」な訳では全くありません。


 それよりも、真の友だちが1人いる人生が「GOOD」で、真の友だちが全くいない人生のほうが、よっぽど「BAD」なのだと覚えておきましょう。




 また重ねて言っておきますが、真の友だちも、ふつうの友だちも、友情を育むべき相手は、神様のような存在があなたの目の前に並べてくれるわけではありません。誰もあなたに無条件に友達を与えてくれないので、要注意です。


 誰かと知り合いになることは、偶然です。その段階までは、まるで神様が与えてくれたかのように、そこに誰かが現れるかもしれません


 しかし、その人とコミュニケーションをうまくとることができ、その人と「ともだち」になれるかどうかは、あなた自身が努力する必要があります。


 ぜひ、頑張ってください。




2014年11月6日木曜日

【高校生のための”人生”の教科書21】 一人ぼっちのあなたのために

 高校生のみなさんの中には、


 「自分には友だちが少ない」「あたしには友だちがいない」


とか


「僕は友だち付き合いが苦手だ」「あたしはうまく友だちに合わせられない」


といった悩みを抱えている人も多いことと思います。


 それなのに、今までの私のお話では「コミュニケーションの力がないと、この社会では大変だ」なんて話をさんざんされてているので、


「それじゃあ自分はどうしたらいいんだ!救いがない!」


とさらに困っていることかもしれません。




 基本的に、この社会である程度うまくやっていくためには、それでもやっぱりコミュニケーションの力は必須なのですが、それが多少弱くても、なんとかやっていけるジャンル、というのが存在しないわけではありません。


 ですので、今回は「その少ないチャンス」について話しておきたいと思います。


 極端な話、友だちがいなかったり、もういっそ「そもそも、学校に行ってない」ようなみなさんでも、ある特定のジャンルに限っていえば、社会人として立派に暮らしてゆける道があります。


 それは「芸術」に関わる分野です。


 あなたが、音楽でも絵画イラストでも、文芸でも、あるいは何かのパフォーマンスであっても、そうした「芸術」領域で優れた資質を持っていたり、それを開花させることができるならば、その場合に限っては


「人間づきあいが下手」


であっても、全然大丈夫です。


 普通の人は、何かの仕事を進めるに当たって、依頼者や周囲の人といろいろな打ち合わせ・話し合い・意思の疎通をしながら業務を遂行してゆきます。


 しかし、芸術作品は、「その作品自身に価値がある」ので、それについてコミュニケーションしないと作品が成立しないなんてことがありえません。


 極端に言えば、そこに素晴らしい絵があれば、それを美しいと思う人があり、それを買ってゆくわけで、描いた人がその場所にいなくても、経済活動が成立することになるのです。




 事実、芸術の分野からは、いわゆる現代のカテゴリーで言うところの


「欝っぽい人」

「偏屈な人」

「自傷する人」

「ひきこもり」

「人間嫌い」


と呼ばれても仕方ない性格の人たちがたくさん大きな仕事をしてきました。


 そして、その人たちの作品の価値が認められることで、彼らは社会で生きてゆくだけの収入を得ることができてきました。


 そうした人たちが「恵まれた資質を持つ、ごく一部の人たち」だと思い込むのは早合点です。たしかに、一部のトップの人たちは、大金を手にして、高い評価を得ています。しかし、そうではない普通レベルの芸術家もまた、腐るほどこの社会では活動しています。


 一例ですが、特にベストセラーを生んだこともない、どこにでもいそうな「作家」と呼ばれる人たちの文庫本原稿印税は、年にざっくり70万円くらいになるそうです。


 年70万円では、食べてゆけません。せめて70×3冊=210万くらいで、バイトで細々食いつなぐ人ぐらいのレベルになります。


 ですので、そうした人たちは、奥さんが普通の仕事をしていたり、雑誌の小さな記事をもっともっと掛け持ちしたりして年収を300万円、400万円と人並になるように努力しているわけですが、みなさんに気付いてほしいのは、


「引きこもりでも、作品製作で年70万円稼げる」


という事実です。


 他者とコミュニケーションして、給与を稼ぐことがしんどいのであれば、「だんまり引きこもりながらでも、何かを生み出す」ことは不可能ではないということも、覚えておいて損はありません。


 ですから、今現在、自分のコミュニケーション能力に自信がないみなさんは、



「では、自分は何で収入を得ることができるか」



について必死で考えてみてほしいと思います。どこに突破口があるのか、どこにあなたの才能が隠れているのか。それはまだ見つかっていないはずです。


 私も、高校時代は自分の才能に気付いていませんでした。あなただってそうなのです。