2016年1月31日日曜日

「大改造!!劇的ビフォーアフター」で出ていたアスベストの話。

 今日(2016年1月31日)に放送されていた「大改造!!劇的ビフォーアフター」で登場した築40年の物件ですが、屋根に「スレート瓦」が葺かれていて、それに


 アスベスト


が入っているということで、丁寧に撤去されているシーンが映っていました。


 で、こういう話を見聞きすると、「あんな古い家だからアスベストが入っていてもおかしくないなあ」という感想を抱く人が大半だと思いますが、



 あまーい!!!(井戸田風に)

 

 えーっと、たしかに放映では「古ーい家」にアスベスト入りの屋根材が載っていたのですが、


 あなたの家にもアスベスト


はけっこう載ってます。実は。


 まず、平成14年からアスベストの使用が全面的に禁止されていますので、今年平成28年として、


 築14年以上経っている建物で、アスベスト含有屋根・壁材の家はアスベスト入り


ということが言えます。


 とくに、建物の設計書や、物件の説明書で、


「スレート葺き」


と書かれていた建物は、全部アスベストが入っていると言ってよいでしょう。



 また、おもしろいことに、「平成14年」という数字は、それ以降、アスベスト入りの製品が作られていない、ということですので、


「在庫品は、それ以降も流通している」


ことは忘れてはいけません。


 これらのアスベスト入り製品は、在庫処分で安価に流通しましたので、実際には14年より新しくても、アスベストが入っていることが多々あります。


 というわけで、あなたの家がアスベスト入りでないと安心するためには


まず、概ね築10年以内


というあたりが境目になろうと思います。



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 で、ここからが大変な話なのですが、ビフォーアフターでもやっていたとおり、固着されたアスベスト入り製品は、「濡らして、かつ壊さないように取り外し、搬送する」ことが重要になるのですが、 問題は取り外した後で、


「廃棄アスベストを受け入れてくれる処分場が、ほとんどない」


のが建築業界では当たり前になっているのです。


 なので、あなたのおうちのアスベストを除去したい場合は、とっても費用と手間がかかることを知っておく必要があります。


 あるいは、処分場があるうちはいいのですが、処分場が将来的に減ったりすると、


「さらに大変なことになる」



ことも予想しておくことが必要になります。


 まあ、たいていの方は、自分の家にアスベストがたくさんあること自体を知りませんから、こんな話を書いてもピンとこないのですが、



 安心しないでください。入ってますよ!!


 と言いたいヨシイエでありました(^^







2016年1月29日金曜日

保育所が危ない!! ~幼児虐待と養育放棄が潜む魔の巣窟になるのか~

 ついに、この業界にメスが入り始めたな、と感じているヨシイエです。


 この業界、というのは「保育所」のこと。


 先日から、保育士が虐待で逮捕とか、今日も保育士が園児を突き飛ばすなどの事件が相次いで報道されていますが、



託児所で6歳男児を暴行か、保育士の女逮捕

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20160127-00000045-jnn-soci
 

保育士が園児たたき、突き飛ばす 倉敷市が保育園立ち入り調査へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160129-00010001-sanyo-l33




おそらく世間ではこんなレベルではなく、たくさんの虐待や育児放棄が行われていることと思います。


 これが単なる推測ではないのは、実は私の周りでも保育園の園児に対する虐待や、育児放棄が行われているという証言があったからです。



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 昨今、こうした収容型施設での暴行問題は、日に日に大きな問題になってきていますが、たとえば


学校における体罰


という問題よりも


老人施設での虐待


あるいは


保育園での虐待



の方が根深い問題になる、という点は、重要だと思います。


 なぜ、老人と幼児に対する虐待が根深いのか、理由はいくつかあります。



 その第一番のポイントは、老人と幼児はきちんとただしく証言しない(と考えられている)ことにあります。


 相次ぐ老人ホームでの虐待においては、さまざまな障害で「通報や主張ができない老人」がターゲットにされているという実態があり、保育所においては、「きちんと話したり主張できない幼いこども」がターゲットになるからです。


 恐ろしいことに、私が聞いた話では、1歳児で喋れないことをいいことに段ボール箱に入れて放置とか、そういう虐待を行っている保育士があると言います。



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 学校教育における体罰は、実は何らかのメリットに対する「対価」として行われている場合が多いです。


 いきなり授業中に先生に殴られるとか、そういう体罰は現在ではありません。現在生き残っている学校体罰は、


「部活動などの指導において、より高いレベルを目指すスポーツ界で、勝利やレギュラーといった何らかの褒賞をエサにして、それを欲しいと思うのであれば言うことを聞け」


という形で行われることがほとんどです。



 ということは、仮に体罰が嫌な生徒がいたとして、彼が褒賞を捨てさえすれば、それ以上体罰を受けることはなくなるわけです。


 仮に、その部活やスポーツをやめてしまえば、日常の学校生活でその先生から体罰を受けることはなくなるからです。


 この点が、あってはならないことながら、学校体罰がマシである理由だと言えます。


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 それに対して保育所と老人施設の虐待は、褒賞に対してではなく必ず、


「職員の指示に従わなかったことに対する、本質的な罰」


として発動します。


 ここには褒賞がまったく存在せず、ただ「言うことを聞かなければ罰を与える」という発想だけが残ることになるのです。



 とすれば、幼児にしても老人にしても、基本的には逃げ道や逃げるルートがまったくない、ということなのです。


 これは、収容所に入れられた人間が、看守の言うことを聞かなければ暴力を受ける、という状態と同じですから、恐怖以外の何者でもありません。



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 そして、保育所と老人保健施設についていえば、もっと恐ろしいことに、


「学校教員よりも、難易度が低い免許、資格体制で職員になれる」


という点が挙げられるでしょう。


 基本的に、4年生大学を出て、教員採用試験という今となっては難関試験を通って採用された教師ですら、体罰を行ってしまう者がいるわけで、


 2年の短大・専門学校卒で資格を得て、採用は引く手あまたの保育士



無資格でも現場に入れてしまう介護施設職員


で、虐待を行う者がいても、別段不思議ではないということになるわけです。




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 その意味では、学校教員が「さらなるふるいわけを経て、資質のないものを教師から外そう」と世間がやっきになっているのに対して、


「保育士と介護士は足りないからどんどんふやそう」


としていることに本質的な闇が潜んでいると考えます。



 もし、この保育所の闇がどんどん明らかになれば「働くお母さんシステム」は崩壊に向かうことでしょう。



 これはこれからの日本の大問題なのです。

2016年1月28日木曜日

<吉家流儲かる起業塾6> 絶対に儲かる副業ビジネスが、儲かりはじめました! 



 そもそもは、このブログ内の記事


<吉家流儲かるビジネス塾1> 絶対に儲かるビジネス を考える




からはじまった個人内ベンチャーである「絶対儲かるビジネスプロジェクト」ですが、不定期に結果をご報告している次第です。


で、スタートから推移を確認しておくと、


2015年5月15日に


<吉家流儲かるビジネス塾4>絶対に儲かるビジネスモデルの、経過報告


で、最初の報告をアップしていました。このとき売上げ累計 6510円 でした。



で、その次が、2015年12月10日で、 



累計売上げ 13849円 になっていました。



 さて、いよいよ今回です。2016年1月28日現在、「絶対儲かるビジネスモデル」の累計売上げは、



じゃじゃーん。


 まだまだゆっくりめのスタートですが、約7ヶ月かかって7400円増加した前々回に比べて、前回から今回は、約1ヶ月半で5000円増加ですから、



増収益スピードは3倍



になってきたわけです。



 ふふふ、このブログで書いている予言どおりになっています。最初は時間がかかるけれど、途中からはスピードが上がるぜい!というのは計算どおりです。



 これは、このビジネスで利用しているプラットフォームのココナラさんの特性なので、いたし方ありません。



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 ココナラ



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 毎度言ってますが、別に私はココナラの回し者ではないのだけれど、このプラットフォームには他にはないすばらしい特性がたくさんあるので、起業の実験には本当にもってこいだと思っています。


☆ココナラが起業のトレーニングに最適な理由☆
 



 上の記事でもいろいろ書いていますが、実際に運用しはじめると勉強になることがかなりあります。


 最初は500円しか選択できませんが、最大5000円まで選択できるようになると、値付けの妙まで学ぶことができます。



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 さて、絶対にもうかるビジネスですが、「他の人がやっても儲かるのか」ということで、別の方がノウハウを引き継いで同じことをやる、という新しいプロジェクトがスタートしました。



 名づけて


「絶対に誰がやっても儲かるビジネス」プロジェクト 始動


です(笑)



 その動向については、またレポします。あいかわらず不定期でごめんなさい。




2016年1月26日火曜日

なんじゃこりゃ!!号泣野々村被告の初公判内容がヒドすぎる件。 

 とにかくあきれ果てた!


 なんじゃこりゃ!


 ・・・明日にでもなれば、すぐにワイドショーあたりが飛びつくこと間違いなしなのだが、あの号泣県議こと


 野々村竜太郎


氏の初公判が本日開かれ、速報が次々に入ってきているところである。


 ところが、その内容が


 酷い、ひどすぎる!!!


のである。



 おなじ兵庫県出身の吉家としては、あまりに情けないと言うか、あまりについてゆけないというか、あまりにヤバいというか、言葉も出ない状況である。



 ・・・何がそんなにひどいのか。



 神戸新聞による速報が出ているので、ぜひご覧いただきたい。



■ 野々村被告初公判 弁護側質問(上)「記憶ない」繰り返す
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160126-00000016-kobenext-soci



■ 野々村被告初公判 弁護側質問(中)「記憶障害の可能性ある」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160126-00000017-kobenext-soci



■ 野々村被告初公判 弁護側質問(下)「反省文はうそ偽り」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160126-00000018-kobenext-soci



 簡単にまとめれば、野々村被告は、ほぼ全ての質問に対し


「記憶にありません。覚えていません」


と回答し、


「わたしは通院中で記憶障害です」


と主張し、問題となっている支出に関する書類についてもいっさい覚えておらず、あまつさえ



「反省文を書いたのは、うそで偽りの内容です」



とのたまったのである。




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 これは一体なんなんだ、というのが正直な感想である。この際、彼がどのような性格の人間で、あるいは、現在心の病に冒されているのかどうかは問題ではない。



 最も恐ろしいのは、



 このような人間が、議員になれてしまう、という日本の社会制度システム



なのではなかろうか?!



 個人的な意見だが、これならまだ個人の利権を求めて議員になった悪徳議員のほうがマシである。



 議員としての職責は経費の指摘流用によって放棄し、そのことを指摘される裁判に至っても、その行為そのものの記憶を放棄して責任を逃れようとするのは、



 もはや、人間を放棄なさっている



としか言いようがないではないか。



 もっと言えば、彼を議員として当選させてしまった西宮市民に対しても


「あんたら、あんたらこそ大丈夫か?あんたらの目は節穴か」



という怒りと驚きも隠せないのだ。



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 吉家も、これまで何度となく民事裁判に当事者として参加したことがあるが、どんなに愚かな内容の裁判であっても、一応は


裁判の重み、威厳


といったものがそこにあり、いくらいい加減な金遣いで未払いになった被告であっても、法廷内ではしおらしく、真面目に応対したものである。


 そして、おそらく法廷におけるその瞬間だけは、「ああ、未払いのお金は返さなくてはいけない」と心から思い、次の策を飲んでくれるよう、裁判官や原告に願い出るのが


普通の人間の感覚


だと思っている。



 しかし、今回の野々村被告の応答は、常軌を逸脱している。



 まるで、寛平ちゃんの


「~誰がじゃ」「~なんでじゃ」「~何がじゃ」「~どこがじゃ」


のネタのように、応答のすべてが噛みあっていないのである。



 もし、この裁判において、野々村氏が心の病を演じているのであれば、彼はすべての心の病の人たちをもバカにしていることになる。



 それほどまでに、ひどい内容なのだ。



 今日はここまで。
 

2016年1月22日金曜日

マタハラがなぜ起きるのか? ~マタニティハラスメントの画期的解決法~

 マタニティハラスメント、つまり



妊娠や出産をしようとした女性に対する会社や組織、あるいは仲間内からの圧力



が問題になっていますが、世間で論議されている内容が、あまりにも表層的なので、怒れる現代の吉田松陰(新)こと吉家孝太郎氏が今回も、



ズバリ



ぶった切るのが今回の記事です(^^






 マタハラというのは、簡単に言えば、「妊娠した女性」「出産しようとする女性」「出産後の女性」と所属する会社や組織において


■ 産休・育休の取得の妨害

■ 退職の勧奨

■ 希望しない配置変更

■ 復職の条件を下げる

■ 精神的ないやがらせ

■ 暴言や配慮のないことば


などを女性に浴びせるものです。



 細かいことを言えば、上司だけでなく同僚からマタハラを受けたり、おなじ女性からの圧力を受けたりすることもあるので、働く女性にとっては戦々恐々といったところでしょう。




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 しかし、この問題、解決策はあるのです。それも至極簡単な解決策があるのに、誰もそれについて言及しないことに真の問題が潜んでいます。



 というわけで、誰も書かなかったマタハラの真実を、丁寧に説明しようと思います。



 世の中のマタハラ問題に対する対応策は、「間違ってはいないけれど、何の役にもたたない」ことばかり言ったり書いたりしています。


 具体例で説明すると


■ マタハラが起きるのは、男性社員や上司の理解不足や協力不足に起因する。


とか


■ 妊娠による退職勧奨は、労働基準法や男女雇用機会均等法に違反する。


とか


■ 産休は、産後8週間の取得義務があり、産前6週間の取得権利がある。



とか、そういうどうでもいい話をのったらくったら、解決法だの対応策だのと挙げていることが、


本質を何にもわかってない!


とヨシイエは怒っているのです。





 あ、でも、こんな書き方をすると、「産休の権利をばかにするのか」とか「法律でそう決まっている」とか、これまたそういうどうでもいい反論をなさる方がおられるので、先に謝っておくことにします。



はいはい、そーですね。ごめんなさい。もうしません。



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 では、本質を理解するには、どうすればいいのか。


 簡単な質問をしてみましょう。



 『この日本には、女性就労者にとって”マタハラ”と呼ばれるものが全く、あるいはほとんどない仕事や職業組織があることをあなたは知っていますか?』


というものです。


 え?そんな会社があるの?


 そこに入りたい!


とすべての女性は思うかもしれません。


 あるんです。その職業について妊娠出産すると、ちゃんと産休や育休がもらえるし、べつに周りの同性や異性からとやかくも言われないし、仕事も元通り復帰できるすばらしいところが。



 えー、そんなの一部の大企業か恵まれたところでしょ?



と思うかもしれません。そんなこたあない。


 どこの都道府県にもこの事業所はあるし、そこらへんにたくさんあります。あなたの住んでいる町にも、かならずこの仕事はあるはずです。


 全国3万5千箇所~4万箇所くらいのその事業所では、マタハラはあまり起きません。


 そこには、マタハラが起きないあるシステムが機能しているのです!



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 マタハラが存在しない夢の事業所、それは全国全ての市町村に存在する



公立学校



という事業組織です。



 そういえばたしかに、「学校の女の先生はよく産休や育休をとっている」「産休代理のせんせいってよくいるよね」と思い出されることでしょう。


 では、なぜ学校という職業組織では、マタハラがあまり起こらず、また女性はそれほどまでに産休や育休を取りやすいのか、ここには大きなシステム上の秘密があることをご存知でしょうか?




 まず、ここで女性教師Aさんという方が、Bという学校に存在するとしましょう。


 A先生は、結婚し、妊娠し、出産するために産休と育休を取るとします。


 A先生はBという学校に籍を置きながら、実際には出勤もしないしお休みするわけです。


 すると、その学校の校長は、「産休代替の先生Cさん」を手配します。


 ということは、Bという学校では、A先生の籍もあるし、臨時ですがC先生の籍もあるので、その配置は「加配」と呼ばれます。


 この「加配」という概念はとても大事です。本来の人数よりも多く配置する、ということ。それがA先生の籍を復帰まで確保してくれるからです。


 そして、配置上は「加配」という処置だけですが、もっと本質的にはそれは



「増加配置分の給与を加算する」


という措置で具体化されます。


つまり、A先生の分(多少休むのでさっぴかれるとしても)と加算して、C先生の給与を出してくれるからこそ、産休・育休が機能するのです。



 じゃあ、その加配分の給料は誰が面倒をみるのか?それは、簡単にいえば「お上=教育委員会事務局=都道府県や市町村」ということになります。


 ここが、マタハラが起きないからくりなのです。



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 整理してみましょう。


① 学校教師の場合は、A先生が休んでも、仕事はC先生が同じように配置されますから、同僚に迷惑がかかるわけではありません。


② その組織における物理的人数は同じになるので、仕事の負担が同僚に増えるわけでもありません。


③ かつ、A先生の籍は確保されていて、籍を確保することでオーバーする給与は、組織の外からやってきて手当てされる、のです。


④ だから、誰も困らない。誰の負担も増えない。多少、臨時の先生の経験が不足するくらいですが、その人物は確実に足を切られても文句を言えない立場なのであとくされもないのです。



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 いわゆるマタハラが起きる企業の場合はどうでしょう?



① 誰かが休んでも、新しい人を雇うことができなければ、同僚は負担が増えるからつらくなる。


② 組織内の人数が減り、かつ仕事内容が同じであれば、怒りたくなる。


③ 会社が出す給料の総数は、基本的には同じか減らしたい。誰も肩代わりはしてくれない


④ 仕事の運営上、上司も同僚も困る。臨時代替はパフォーマンスが低いのだから、どうせおなじく育てるのであれば、前任者に辞めていただいて、そいつを新たにちゃんと雇ったほうがいい





 こうしてみると、権利がどうとか義務がどうとか理解がどうとか、そんなのどうだっていいことがわかるでしょ?



 本質は、どこにあるのか!!!!



 簡単です。



 誰かが休むことで、物理的負担が増えることに対しての担保が、どこにもなされていないことが本質的問題なのです。


 
 Aさん、A先生といった産休を取得する女性側の問題ではありません。むしろ、すべては周囲の問題で、周囲の問題に対して「解決するための代案」がまったく出されないから



 誰も言うことを聞きたがらない


のです。



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 では、ここから解決策を出してみます。


上に挙げた①~④に対して、ちゃんと代替案を出すと以下のようになります。



① 同僚の負担が増える分に対して「産休補填手当(手助け賃)」を創出して、上司と同僚に払う。


② あるいは、産休代替期間限定社員を配置する。ただし、


③ その社員の給与に対して、国が100%補助する。会社は持ち出さなくて良い。もちろん、上記の「産休補填手当」も国から支給する。


④ 産休者を辞めさせて後任者を雇うより、産休者の籍を残したほうが有利であるように制度設計する。そのために③がある。(辞めさせると給料を自社で手配しなければならない)




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 わかりやすくします。誰かが産休になると、上司と同僚は「手助けする分の給料の上乗せがもらえる」か、あるいは「代理メンバーを配置」してもらうことができます。


 会社は、新しい人を雇ったほうがマシだと思えば産休者を辞めさせようとします。なので、籍を残しておけば「代替者分の給料は国から出る」としなければなりません。


 全額でなくても、半額くらいでもいいのです。「半分国が給料を出すなら、籍を残して代替者を募集したほうがいいな」と会社は考えるかもしれません。



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 となると、産休者が生じると、国は200万とか400万とか払わなくてはいけないのです。えらいことです。


 というわけで、めちゃくちゃ税金が上がります。こどもたちのために!

  
 画期的でしょ?(笑)





 ・・・というわけで、いまのままではマタハラは絶対に解決できない、と宣言しておきます!






2016年1月21日木曜日

【学校をめぐる諸問題05】 実録!こうして我が校は県内最低の「教育困難校」に成り下がった!! ~学校を荒れさせたのは、管理職のしわざ~

 今回は、ヨシイエが把握している中での最悪のケースを紹介して、「学校がいかに荒れてゆくのか」をレポートしたいと思います。

 残念ながら、これは実際にあったお話なので、私もその学校に関係していた人を知っているものですから、どこがその学校かと特定されるような書き方はできません。

 なので、事実として起きた問題点のポイントを整理しながら、うまくまろやかにボカしつつ記述してゆくよう、気をつけてゆくつもりです。


 この事例を読めば、「学校がどうして荒れてゆくのか」のひとつのヒントを得ることができると思います。




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【1】


 A高校は、某県においては中核になるような都市部の学校であり、造成団地や新都市の成立によって、配置が決定された「最後の新設校」であった。


 すでに、その県においても少子化傾向は如実になっており、いずれ高校の学級減は必須になることは予想されたが、それにも増して、該当地域での中学生の増加が顕著であり、新設やむなしという結論になった学校なのである。


 県中核部の都市に、高校が新設されるということは、校長会において「都市部の赴任ポジションが一つ増える」というイス取りゲームのイスが増えることを意味する。


 その内部でどのようなかけひきがあったかは定かではないが、結果として「外国語学習に重点をおいた特徴ある学校づくり」の拠点校となるべき前段階として、赴任経験が中堅校2校目となる英語科出身校長「B」氏が、該当校に着任することになった。


 同時に、該当校の開設準備室長を務めていた隣接校の教頭「C」氏が、そのままスライドで、該当新設校の教頭として赴任する体制が取られた。


 
 
 某県都市部には、いわゆる進学校からはじまり、二番手校、三番手校など複数の進学を中心とする高校が存在し、さらに工業高校や商業高校も一通り揃っている。もちろん、あまり学習意欲の高くない高校生たちもいるため、高校序列においては、下位にランクするような学校もその都市に存在するのだが、本当に最下位といえるような低学力の生徒は、その都市から離れた隣の市にある某高校に進学することが多いため、いちおうタテマエ上は、教育困難に相当するような高校はその都市にはない形になっていた。


 教育委員会の当初の設定としては、このA高校をその都市における標準的な学力設定に置かざるを得ず、つまりは「普通の学校」として開設することになった。


 しかし、それでは面白くない、と考えたのが赴任するB氏やC氏であり、彼らは「A高校を特徴ある学校づくりを通して、特に外国語教育に力を入れた新世代の高校に育てたい」という熱意をもってスタートさせるつもりだった。

 そのためには、最終的な目標として、一定の進学成果を挙げ、ひいては外国語に関する文部省や県の研究指定を受け、都市部ないで願わくば3番手か4番手くらいの上位校に育てたい、と考えたのである。



 A高校の校舎は、緑溢れる中庭を中心とした構成と、無垢の板材をふんだんに使った美しい仕上げであり、新入生が着る制服も、有名デザイナーであるM氏に依頼した現代らしい端正なものであった。


 そのため、該当学区の中学生から、「新しい学校は、綺麗で制服も可愛い」ということがあっと言う間にうわさになり、入試前からすでに倍率は定員オーバーが確実な状勢であった。


 そこで、B氏やC氏、あるいは開設準備室のメンバーは、当初の設定よりも高い内申点で「足切り」をすることを決め、教育委員会もそれを了承した。


 足切り、とはあまりふさわしい表現ではないが、簡単に言えば、中学校から上がってくる生徒の成績から算出された内申点のうち、基準に到達しないものを不合格にするということである。


 当然、入学試験があるため、入試点も同時に結果が挙がってくるのだが、入試点に重点をおけば、学校での生活・勉強ぶりが悪くても一発逆転することがあるため、内申重視の足切りをすれば、「比較的いい子たち」が入学することになる。


 こうして、A高校のスタートのお膳立ては、準備万端整ったのである。




【2】

 A高校をいわゆる進学校に育てたい思惑をもつ現場サイドと、新設校の高い人気が相まって、最初の新入生はかなり高いレベルの生徒たちが入学することになった。

 校長のB氏、教頭のC氏をはじめ、まずは1年生だけを担当することになった担任団は、意欲的にこの学校運営をはじめようとしていた。


 さて、いわゆる一般教師団を呼び集めるに当たっては、B氏やC氏の意向を踏まえて某県の各地から、実績のあるベテラン教員が配置された。

 新卒や若手はおらず、全員が40代という最も脂がのった世代を集めて、磐石の態勢をしいたのである。
 それぞれ、教科においては、研究会や事例発表で一定の評価を得るような有能な教師たちが集まり、「新しい学校を作りあげてゆく」という気概に満ちていた。



 おそらく、ここまでは何の問題もなく、A高校の船出は輝かしいものとなるはずであった。ところが、それから、A高校には思いもよらない落とし穴が待ち受けていたのである。



 それは、当時の「学習指導要領」によって示された「教育相談的思考」と「個性の伸長」といった、いわゆる「ゆとり的発想」による指導方針を、B校長とC教頭が具現化するための方法にあった。


 「こどもたちを頭ごなしに枠にはめないこと」「まず、受容し、傾聴し、話を聞いて指導すること」「カウンセリング的手法を用いて伸ばすこと」「個性を尊重すること」


 こうした内容が、全職員に訓示され、「このやり方こそがA高校の新しい教育なのだ」と振り上げられたわけである。
 C氏は、これらを端的に表す用語として「説得と納得」という言葉を多用した。生徒を説得し、納得させる指導をせよ。それは、教科においても生活指導においてもそうである。というのだ。


 ところが、実際にA高校の運用が始まってゆくと、思わぬ事態が起きるようになっていったのである。


 基本的には、A高校の入学生は平均レベルの層を形成する生徒たちであることは否めない。いやむしろ、足切りによって、それより幾分レベルの高い生徒たちが集まっていたことは事実である。
 しかし、40人×10クラスという都市部大規模校にあっては、下位層には生活が苦しい者、保護者との関係が良好でないものなども一定数は存在したことを忘れてはならない。


 そして、その頃にはまだ一般名称として広まっていなかった「メンヘラ」と呼ばれるような、心身になんらかのトラブルや課題を抱えた生徒も、その中には含まれていた。




【3】

 最初の事件は、学校中のすべての電灯スイッチのカバーが外される、という事態であった。それがいつ起きているのか、誰がやっているのかわからないまま時間だけが過ぎてゆく。最終的には、それは心に不調を抱えた生徒の犯行であったらしいが、生徒の中には得体の知れない動揺が広がっていった。

 なにせ、学年はひとつしかない。そのフロアで次々に起こる怪事件。そして、その不安感は、1人のちょっとイキがった生徒の暴力で爆発した。


 ある時、生徒同士のケンカがあり、その場は仲裁されたものの、該当生徒の1人が怒りに任せて便器を破壊する、という行動に出たのである。くしくも同じ器物破損であったが、真新しい校舎が、複数の人物によって破壊されてゆく様は、異様ともいえる様相を呈していた。


 もちろん、教師は都度、該当生徒を指導している。しかし、「説得と納得」が題目であるため、担任団は大声で叱ったり怒鳴ったり、実力で彼らを制止することは管理職によって禁じられていた。
 あくまでも、別室で話を聞き、「受容」するのみである。必要な指導は、カウンセリングが終わってから、納得していただく、ということなのだ。



 担任団の中には、「もう少し厳しい口調など、指導方針を変えたい」と考える者も当然いた。ある教師は、腰パンで廊下に寝転がっていた生徒を一喝した。しかし、その日のうちに教頭に呼び出され、あろうことかその教師が指導を受けたのだ。


 当時抜擢され、生徒指導部長を務めていた人物は、のちに述懐する。「説得と納得を実行しなければ、自分たちが管理職に怒られる。おかしな方針だとは思ったが、それが新しい教育だと言われれば黙るしかなかった。そして、中にはその方針を信奉するように、子供達に傾聴し、傾倒してゆく教師もいた。ある種の宗教のようなものだった」と。


 そうした方針は、生徒たちから見れば「どうしてあの生徒は指導されないの?どうして叱られないの?」という不満へと繋がっていく。たしかに生徒は指導されてはいるのだが、「納得するまでは説得の時間」であり、懲戒は受けないのである。別室にいれば、彼らが指導されている姿すら、一般生徒には見えないのだ。
 そうして、次第に「これはしてはいけないレベル」や「ここからはヤバイ行動」という生徒の行動の善悪に関する下限が下がっていったのである。


 2年目に入り、新しい学年の担任団が赴任したとき、その違和感はすぐに判明した。彼ら余所者から見て、「指導とはこうあるべきだ」という基準がまったく異なるため、2学年担任団と、1学年担任団の行動パターンが合致しないのである。

 面白いことに、管理職は新学年担任団にも「説得と納得」の方針を伝達しようとしたが、残念なことに新学年担任団には、それは受け入れられることはなかった。

 のちに新学年担任団は「あれは説得と納得じゃなくて、『言っとくとほっとく』だろう」と上の学年団を揶揄するようになってゆくのである。



【4】

 都市部における標準的な学力の高校である、ということは何によって担保されるか理解しているだろうか。

 それは、「定員割れを起こさないこと」である。
 
 どの学校においてもそうだが、入試選抜があるということは定員を割った瞬間に「お互いに不本意な入学をする生徒を追加で入れる」ことに他ならない。


 お互い、とは学校サイドから見ても、生徒サイドから見ても、ということだ。つまり、彼らは入学した学校を最後まで愛することはなく、いやいやながら登校することになるのである。


 A高校では、なまじっか本来の実力よりも足きりでハードルを上げた結果、「あそこは入れないだろう」という悪い意味での予想が広まり、数年目に定員割れを起こした。


 本来であれば、一過性の定員割れは解消できるものだが、前述のように「指導されない個性溢れる生徒たち」を量産していることは、暗に広まっていたため、その定員割れが常態化するのに、それほどの年月はかからなかった。


 そして、開校から3年で、当初の管理職であるB氏もC氏も、次の学校へと異動することになるのである。残されたのは、「説得納得」の怨霊と化した学年団と、それに反駁する下位学年団、そして新学年の担任団である。


 もちろん、B氏も、手をこまねいていたわけではない。新学年の担任団については、県内の各地から「生活指導部長」を全員呼び寄せて任に当てた。

 これもある種強烈な布陣である。屈強な担任団が、新1年生をガッチリ指導しよう、というわけである。


 しかし、実態としては時すでに遅し、各学年では進級を迎えるごとに十数名ずつの脱落者を生み、「あそこは中退者が多い学校」のレッテルは瞬く間に広がった。




【5】

 教育委員会は、A高校の苦境を理解していた。せっかく華々しいデビューを飾ったA高校であったが、実際には最初にボタンをどこかでかけ違えてしまったのである。


 校長会は、興味深い結論を出した。最初に述べたように、新しい高校はイス取りゲームのイスであるから、そこに誰が座るかは重要な問題となる。

 そこで、A高校の新校長は「体育科」の校長が赴任することになった。教頭もおなじく「体育科」から赴任することになった。これは単純な話である。

 都市部の大規模校、という当たりの学校のイスを、体育科派閥は、英語科派閥から2つも頂いたのだ。


 新体制では、校長、教頭とも体育という布陣となった。しかし、A高校の下落を、体育教師が二人配置されたくらいではすでに止めることはできなかった。



 現在、A高校は県下でも一二を争う教育困難校となっている。あれからしばらく時間は過ぎているが、その間にはいじめで新聞沙汰を起こしたりもしている。最悪の時期には、毎年入学者の4分の1が退学し、学校を去っている。


 教育委員会がとった最終手段は、ひとつである。A高校の学級数減と、閉校への準備。小子化の進行により、大手を振ってそれを断行できることは、ある意味幸せなのかもしれない。


 これが、A高校の悲しい物語なのである。




==========


 この話の元主は、興味深いことを話していた。


「荒れている、トラブルを起こしている生徒がその集団で5%を超えると、その枠ではコントロールできなくなる。クラスで言えば、40人学級なら2人までなら不良がいても制御できるが、3人になると不可能だ」


と。


 彼がA高校の元教師たちから聞いた話だと、「教師たちはまったく意欲を失っておらず、常に全力で生徒と向き合っているつもりだったが、人数で歯が立たなかった」という。


 クラスの1人目が、言うことを聞かないなら担任が外へ連れ出して指導する。2人目は副担任でも学年主任でも連れてくればいい。でも、3人目がその脇をすり抜けていったら、あとはカオスだ。というのだ。


 そして、学校がそうなるには、そこまで至るには確固たる理由があるという。それは


「指導するのは悪さをしている本人に、ではないのです。本当に必要なのは、ギャラリーになっているその他大勢の生徒に指導することです。間違っている生徒は、正されている、叱られているという姿は見せ付けなくてはいけない。それがパフォーマンスであってもです。それをしなければ、その他大勢の生徒は教師を信頼できなくなる。両手を広げて悪い生徒とぶつかっている教師の姿を見て、彼らは『この先生の言うことは聞こう』と思うのです」

ということである。


 教師が指導する姿勢を捨てたとき、生徒もまた、気力を失うのだから。



 
 
 
 



2016年1月20日水曜日

【学校をめぐる諸問題04】 荒れた学校を建て直す方法。



 ツイッターで、学校の「荒れ」について話題が出ていたので、ヨシイエなりに「荒れた学校を建て直すにはどうしたらいいか」をつぶやいてみたところ、面白い反響がありました。




吉家

 荒れた学校を正す唯一の方法がある。それは管理職が陣頭指揮を取って正すことだ。「荒れた生徒と戦う」のではない。「荒れた生徒と向き合う」ことでもない。ただ、正すのだ。おかしいことはおかしいと言い、正しいことをさせるのだ。 

 https://twitter.com/yoshiiekoutarou/status/689070666679627776




 このオハナシに「それはきれい事だ」とつっこんで下さった方がおられたので、「なるほど、それはそういう風に思われても仕方ないな」と吉家も反省した次第。


 というわけで、もう少し具体的に、実話としてどういう手法で荒れた学校を正すことができたのか、あるいはできるのかを解説しようと思い立ったのです。


 ただまあ、わたくし吉家は、学校の先生が頑張ってるだの、生徒と向き合うだの、そういう美談めいた話は大っきらいなので、


 システムとして学校はどのように機能しているのか


を理解した上でお読みいただけば幸いなのです(にこにこ)



 というわけで、予習として、



【学校をめぐる諸問題01】なぜ学校教師は部活動をやめられないのか?!
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/01.html



【学校をめぐる諸問題02】いじめや学級崩壊が起きるのは全て職員室のせいである!
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/02.html



【学校をめぐる諸問題03】 教師である前に親である、親である前に教師である。
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/10/03.html



を軽-く読んでおいてください。



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 さて、学校を立て直す、と一口に言うけれども、実はその中身はいくつかのパターンがあります。


 これをしっかり理解しておかないと、美談もゲスい話もいっしょくたになりますので、要注意です。

 実際には世の中に出ているニュースではこれらを全部混ぜこぜにして「学校改革でよくなった」というイイ話になって広まっていることが多いので、信じてはいけません。



 では、モデルケースを。





① 卒業させて違う学校にする。

 私学などで学校法人の母体が変わるとか、経営者が変わるとか、どこかの付属になるとか、そういう組織変化が大きい学校の時によく使う手法で、ゲスいやつです(^^

 たとえば、その学校がずっと荒れていて、ヤンキーばっかりだったのを


「新年度から新しい学校名になって、制服も変わって、学科も変わったり新しいカリキュラムになったりするので、生まれ変わるからね!」


とPRしまくって募集の段階から異なる入試選抜を行います。

 そうして、新しい入学生からは純粋培養をして、「ヤンキーの三年生とは目を合わせてはいけません。友達になってもいけませんよ。あの人たちとあなたたちは違うのです!」とがっつり洗脳するのです。

 3年生とは制服も違い、腫れ物に触るように追い出されるヤンキー3年生は、グレますが、元々グレているので評判はそれ以上下がりません。


 そうして、1年後にヤンキーたちが卒業すると、あら不思議「あんなに荒れていたのに、いい学校になったわね」と地元のおばさんたちに褒められるようになるわけです。


 これも立派な「荒れた学校を建て直す」でありまして、よくあるパターンですね。ゲスいけど。






② 特徴ある学校づくりをして、入学生の質を変化させる。

 「なんとか科」を新設したり、「スポーツ推薦」を取り入れて特定の部活に力をいれたり、あるいは文科省の「ほにゃららスクール」に応募したりして、


 新入生の質を変える


ということもよくやります。これも実は、①のゲスいのと発想は同じです。しかし、こちらは、ヤンキー3年生をあからさまに差別するようなゲスさがないので、まろやかに変化が起きます。


 でも、本質的には何にも変わりません。なので、今度は、特別な選抜で入ってきた子や、スポーツ推薦の子や、新入生が


「うちらは先輩たちとは違うもんね」


と勝手に威張りはじめます(笑)。






③ 現在の生徒を立て直す。


 小中学校や、公立高校において、やっぱり求められているのはこの王道ですが、体制を変えるとか、募集枠を変えるとか、目に見える変化が少ないので苦労なさる先生たちは多そうですね。


 そこで、実用的なのは「今度来た校長はヤバイらしい」といううわさに代表されるような、「教員の人事」でこの変化を立ち上げるパターンです。


「今度来た学年主任は怖いらしい」

とか

「今度来た生徒指導部長は、ヤバイ学校から引き抜かれたらしいぜ」

とか、


そういう「変化のキャッチコピー」や「変化の物語」を背景に作ってやるとうまくいきます。


 だから、基本的には「管理職の陣頭指揮」が必要なのです。


 よく読んでくださいね。①も②も③も、「学校体制と人事をいじって、学校を改革する」というものです。


 これらは全部、ヒラの教師の職分ではなく、管理職の権限によって発動するのです。




 よく考えてみてください。

『荒れている学級や、学校が、今日から明日から担任や学年団の気持ちや行動ひとつで良くなることなんてない』

ことは、学校関係者であればすぐに気付くはずです。


 先生が何かひとこと言って良くなるとか、児童生徒が何かに出会って良くなるとか、そんなのこそ夢物語です。

 それで変われるなら、学級崩壊や学校崩壊は起きません! 


 そういう内在化された要素では「変化はおきない」からこそ、「外部からの刺激」が必要になるわけで、


 学校において、外部から何かをもたらす業務は、常に管理職の職分である


ということを考えると、管理職が「何かを持ち込まない限り、荒れた学校は変わらない」のです。



==========


 しかし、新しい学校体制をつくるいいネタもないし、そんな要素もない。現有勢力で何かを変革しなければ、荒れをおさめることができない。


 リソースが限られている


という場合に、管理職は何ができるでしょうか?


 それは、「総枠を変えずに、変化を起こす」ということになります。


 私が管理職なら、


「学級担任を総入れ替えする」「違う学年団の教員を、半数以上ぶつけて入れ替える」


ぐらいは平気でやるでしょう。


「1年A組の担任が、2学期から3年A組の先生になるらしい」

「B組も3年の先生がくるらしい。やべえよ」

「いったいなんで?・・・ていうか、だいたい理由は予想つくけどな」


という状況にもってゆくのです。


 この時点で、児童生徒には不安が生まれます。相手が不安でひるんでいるときこそ、荒れた学校を正すチャンスになるのです。


 しかし、これをぶち挙げると、かならず職員室内部で反対が噴出します。


 いいですか?またゲスい話をしますが、


「うまく行っている学級の担任や教員は、うまく行っていない誰かの問題をかぶりたくはない」


のです!!!



「俺は、わたしはうまくやっているのに、荒れている学級や学年があれば、それはその担当者や担当者たちの問題でしょ?私たちは、難を逃れているのに!!」


というのが全ての教師の本音です。


 ですから、あえて言います。そこを押して全校体制で改善するには、やはり強力な管理職の力が必要になるのです。



==========

 
 従って、荒れている学級や学校が、「個人の資質の問題」で片付けられている間は、その荒れはいつになっても終息しません。


 しかし、一番最初の手法でも述べたように、その学年が卒業して自然終息することはありえます。

 でも、それは教育の成果とは呼べませんよね?



 あなたの周りに、荒れた学校や学級があるなら、この記事をよく思い出してください。




 管理職は「話を聞いたり、相談に乗ったり」しているだけで、結局のところ、担当教師の力量の問題に話を帰結させていませんか?


 管理職は、荒れに対して、生徒指導部門や学年団に、結局のところ話をゆだねていませんか?


 管理職は、荒れに対して、有効なシステムの変化を提案できていますか?


 


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 吉家はよく、「学校はパノプティコンである」という話をします。




学校は「ブラック職場」なのではなく「オワコン」なのである
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2014/06/blog-post_5968.html


なぜ学校は機能しなくなったのか ~いじめ問題から考えるパノプティコン~
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/07/blog-post_16.html



 パノプティコンの意味がよくわからない人は、「網走監獄」へ一度見学に行ってみてください。


 網走監獄には、「五翼放射状平屋舎房」という収容施設があり、この建物は、中央に見張り台があり、5つに分かれた収容房の全体を、1人ですべて見渡せるように設計されています。


 そして、見張り台からはすべての囚人の部屋が見渡せるのだけれど、囚人からは見張り台はまったく見えない、という作りになっています。



 これが、ベンサムの設計した、学校教育の真髄なのです!!


 本来、学校の教育システムはパノプティコンと同じですから、教師が教壇に立ち、それが教師なのだと認識されれば、その人物に力量があろうがなかろうが、教育伝達システムとして機能するように設計されていました。


 ちょうど、見張り台で看守が居眠りをしていても、囚人たちは「自分は常に監視されている」と思いこまされたように、教室では


「教師と生徒の立ち位置、ポジションとはこうである」


と思い込まされていたことで、機能してきたのです。



 ところが、現代になるとパノプティコンは瓦解をはじめています。


「教師の言うことは聞くべきだ。ただし、その教師に力量がある場合にのみ」

「教師は生徒の力を伸ばすべきだ。むしろ、しかってはならない」

「教師は、生徒が学校に来ないという選択も受け入れるべきだ」



 これを監獄に置き換えるとわかります。


「看守が起きているときは、じっとしていよう。看守が寝ているのが見えるから、好きにできる」

「看守は囚人の自由を認めるべきで、施設内での移動は認めてもいいのではないか」

「看守は、もはや房に入ることも強制せずともよい」



 こんな刑務所は、荒れて当然でしょう?



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 個人的には、パノプティコン学校はもう限界だと思っています。だとしたら、新しいシステムを作って、学校を立て直さなければならないのですが、そのシステムはまだ生まれてもいません。


 すべての教師と、学校管理職は、「新しい時代の学校像」を真剣に考えなくてはいけないのかもしれません。



2016年1月18日月曜日

バス事故について思う。「安い商品を選ぶことは、必ず誰かが傷つくということだ」

 こんにちは。稀代の実国学者、吉家孝太郎です。


 資本主義社会の絶対善として、「価格が安いことは良いことだ」という大前提があることは言うまでもありません。

 絶対善でわかりにくければ、絶対正義と言い換えてもかまいません。


 とにかく、「安いことは正義」であり、資本家や企業は、競争によってその安価を実現し、消費者に安価で製品を届けることがこの社会の当たり前のしくみである、ということになっているのです。


 そのため、価格を吊り上げるような談合や市場の独占などは禁止され、資本主義が発達した社会では、こうしたことは違法とされているわけです。



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 しかし、いよいよ資本主義が熟成しきって、半ば腐りかけてくるとどうもそれがすべてではないように思えてきたのですがどうでしょうか?


 先日起きたスキーバスの事故でも、あるいは以前に起きたツアーバスの事故でもそうですが、


安価であることの背景に、数々の違法行為や無言の圧力が潜んでいる


ことに日本人は気付き始めているところです。


 この話は、バス会社の問題やツアー会社の問題としてとりあえずは考えられるはずですが、その背景にあるのは、ブラック企業やすき家やワタミと同じだと、誰もが直感的に気付きます。



 そうです。日本の企業は構造的に、「安価を実現するために、誰かの幸せを犠牲にしている」ということをやり続けているわけです。



 日本人は愚かなことに、その犠牲が消費者本人に振りかかって来た時に、その恐ろしさに気付くわけですが、実態としては、消費者に被害が及ぼうが及ぶまいが、そのシステムはなんら変わりないわけで。



==========




「安いサービスを選択した消費者が、リスクを追う事はいたしかたない」

のか

「法令違反をしてまで、サービスを安くした企業が悪い」

のか、そのあたりはいくらでも議論の余地がありますが、思い起こしてみると、もっと本質的なことが見えてくるはずです。



 そもそも、


「安価であるということは、必ず誰かを傷つけているということだ」


ということ。それが全てのスタートなのではないでしょうか?



 コストを下げ、安い商品を製造するということは、どこかの国の誰かが、安くこきつかわれているということです。


 価格を下げ、安いサービスを提供するということは、同じ仕事をしても、低い賃金しかもらえない人が存在するということです。


そして、そういう安価なものを求める消費者は 回りまわって「かならず、あなたの労働に対する対価が下がる」という報いを受けることになります。



 これが、資本主義社会における「絶対善・絶対正義」だと言うのですから、ちゃんちゃらおかしいわけで。



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 消費者にとって「価格が安いことは善である」というのは、食物連鎖の最終捕食者ではないですが、「最後の受益者」にとってだけです。


 あなたが、消費者であると同時に生産者や生産に携わる労働者であるならば、「自分の労働力が高い」ことが絶対に善です。


 つまり、食物連鎖の途中にあるものにとっては、「安くて簡単に大量に食われてしまう」わけにはいかないのです、。



 日本人は、これまで、世界第二位の経済大国ということで、「最後の受益者」側にいました。


 しかし、そのための原資を入手する段にあっては、他国との「安価なサービス提供競争」へと巻き込まれはじめているわけです。




 バスツアーで言えば、日本がもっと貧しくなったら、30人乗りのバスに40人が窓枠にしがみついてでも乗ってゆく時代がくるかもしれません。


 列車でも3等車のタラップに何人もがはみ出して乗っている時代がありました。そこに逆戻りするだけです。


 安くて、貧しい時代は、再びやってくるのです。


2016年1月14日木曜日

【3万円パソコン】キター!?2016年在庫処分価格は、ノートPCが25,980円なり!

 つい昨日のこと、DELLの特価情報で、


ノートパソコンが27,980円!


とか


ノートパソコンが26,980円!


とか、記事に書いていたら、ぎょええええええ!!!!なことに




今朝、FAXが入っていました。




はい!まいどお馴染みDELLさまのVostro15 3000シリーズ


 ¥25,980


の爆裂価格です。



なんで~なんで~なんでやねんねんねん!!



 3段落ちのように、1000円ずつ下がってゆく価格ですが、理由はCPUの構成が違うからなので、そこは注意しておいてくださいね!


 今回も、もちろんテンキー搭載フルスペックノートですが、


Vostro 15 3000シリーズ

■ 15.6インチ液晶

■ celeron 2957U

■ windows8.1

■ 4GBメモリ

■ 500GB HDD

■ DVDマルチ



 今回は、CPUが2957Uになっています。



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 このたび世間を騒がせているDELLのVostroは、おなじセレロンでも


□ Celeron 2957U  ・・・ 2コア 1.4GHZ 2013年

□ Celeron 3205U  ・・・ 2コア 1.5GHZ 2015年

□ Celeron 3215U  ・・・ 2コア 1.7GHZ 2015年


の3種類が搭載されています。


 こうしてみると、今回の2万5千円ノートは、CPUを型落ちにして


「総価格を安くまとめた仕上げ」


になっていることがわかりますね。



 それでも、メモリは4Gだし、HDDも500G入っているので、実用性は十分です。ビジネス用途なら


ぜんぜんいけちゃう


感じだと思うのですが、一台いかがですか?


(私はDELLさんの回し者ではありません。あしからず)









2016年1月13日水曜日

SIMなしの「iPhone5s」をアクティベートして使う ~アクティベート用nano simカードを使ってみた~

 今更ですが、先日iphone5Sからiphone6に変えた関係で、古いiphone5sが手元に余っておりました。

 「えー?今更iphone6?」とか言わないの!


 iphone6 PLUSも別に持っているのだけれど、ちっちゃいiphoneが好きだったので、5Sから6Sに変えずに、あえて「激安の旧型6」に機種変更したのです。文句言うな(笑)



 で、そのままほったらかしにしていたiphone5Sですが、家族用のipod代わりにしようとしてハタと気がつきました。

「ああ!SIMがないんだった!!」と。


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 以前、iphone5から5Sとか6に変えた時は、SIMカードの規格そのものが変わったので、旧機種には旧SIMが刺さりっぱなしで、新機種には新SIMを新しくもらえたわけです。


  ところが、今回の5Sから6シリーズへの移行の場合は、nano SIM という規格がおんなじなので、旧機種から新機種へとSIMを入れ替えるわけですよ。


 そうすると旧機種は SIMなし になっちゃうので起動しなくなるわけです。



 というわけで、その対策の記録を。


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 SIMのないiphoneは、新しい家族用アカウントを取ろうとして初期化すると、立ち上がらなくなります。





 一見すると先へ進めそうなのですが、ポイントは左上の表示。


「SIMなし」




となっていると、進めているうちに、


「SIMカードが挿入されていません」

というエラーが出て、それ以上進めなくなります。


 というわけで、市販のアクティベート用SIMカードを購入。


 今回はamazonで購入しましたが、

ドコモなので「ドコモ用」を買いました。AU用、ソフトバンク用はそれぞれSIMの中身が違います。



☆amazonで買う時は、一番安いものを買ってしまいがちですが、 レビューをよく読んで動作実績があるショップのものを買うようにしましょう。

複数店舗から出品がある場合は、中華な店で買うと「全く動作しない」場合が多々あるそうです。


  ドコモ用で、iphone5s用nanoSIMは、「APNショップ」が売主のものを選択してください。

 この店以外のものは、不動であることが多いようです。

 今回、ヨシイエも、もちろんAPNショップで売られているものを購入。無事動作。





 やってきたSIMカードはこんなの。498円なり。

 



カードはnanoサイズに切り取れるようになっています。手で押し込むと極小サイズに切り取ることができます。そんなに難しくありません。


 これをiphoneに装着!!


すると、
左上の表示が、「圏外」に変わります。



 これで、番号だけが抜かれたSIMと同じ動作に。


無事、アクティベートできるようになりました!!めでたし、めでたし。







【3万円パソコン】ついにノートパソコンは2万円台!ノートPC ¥26,980 でどうだっ!!

 いつも激安パソコンをリサーチしているヨシイエですが、2016年、年明け早々から


 激安特価情報


が入ってきました。


 相変わらずの特価を出してくれるのは、世界のDELLさま。



 ただし、個人向けではなく、法人向け特価情報です。



 まずは、新年早々の27,980円ノートパソコンから。



 新規もしくは3年以上未購入限定割引ですが、


Vostro 15 3000シリーズ

■ 15.6インチ液晶

■ celeron 3205U

■ windows8.1

■ 4GBメモリ

■ 500GB HDD

■ DVDマルチ

のフルノートでこのお値段は、ぶっ飛び価格ですね~。


(状勢・期限・キャンペーンなどにより価格の変動があるので、詳しくはその都度DELLさまにお問い合わせください)


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 さて、お次は、2月まで期限があるさらなるお得情報です。


 さらに激安の26,980円ノートパソコンは


 どどどどーなってるの?


という状態!



 こちらも新規・3年以上未購入限定での割り引きですが、それにしても安すぎる。


Vostro 15 3000シリーズ

■ 15.6インチ液晶

■ celeron 3215U

■ windows8.1

■ 4GBメモリ

■ 500GB HDD

■ DVDマルチ


ともちろんフルスペックノート。



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 私、べつにDELLさまの回しものではないのですが、あまりの安さにそろそろ誘惑に負けてしまいそうです・・・。


 ちなみに、これらのモデルが欲しい方。残念ながらネットには載ってないし、一見さんでもダメです。


「なんで?新規の方限定なんでしょ?」

と思われると思いますが、過去にDELL製品を導入した顧客(法人)向けの特価なので、新規とはいえ「お得意様」でもあるというしばりがついています。


 ネットで目を皿のようにして探しても、この価格は出てきませんのであしからず。


 それにしても安い!!!



2016年1月9日土曜日

若い女性が貧困で風俗嬢になるしかないのと、妾・側室になるのとどっちが良いか ~いや、いっそ一夫多妻制度が日本を救う!?~

 若い女性の貧困問題がやたら取り上げられるようになって心を痛めているヨシイエです。




 貧困寸前!急増する「女性の生活苦」知られざる実態(ダイヤモンドオンライン)
 http://diamond.jp/articles/-/83467


 単身女性の3人に1人が貧困に驚いた(BLOGOS)
 http://blogos.com/article/153886/


 「風俗でも抜け出せない『独身女性』の貧困地獄(週刊新潮)
 http://www.dailyshincho.jp/article/2015/04130800/
 


 とまあ、ここ近年は、この手のニュースや話題が溢れています。


 「貧困女子」を流行語大賞にして、みんなでもっとこの問題について考えないといけないと思うのですが、残念ながらそうはならんでしょうな。


 さて、現実問題として、独身女性の3分の1は年収100万円程度の貧困状態にある、というデータはすでに目新しくもなく、各所で取り上げられており、中にはそれゆえに


 風俗嬢になったりAV嬢になって


いる状況の人たちがいる、ということがある意味ではスキャンダラスな視点で語られているところです。


 もっと、ひどい場合には、「風俗嬢にすらなれない顔とスタイルの女性だっているんだ」という救いのない取り上げ方をしている記事もあります。

 見ているだけでげんなりするのは、私だけではありますまい。



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 では、若い女性の貧困問題を解消するには一体どうすればいいのでしょう。政府的には、「女性の活用、登用」をモットーに掲げていますが、そんなのは絵に描いたもちで、女性は昔から搾取の対象でありました。


 たとえば、明治期以降の殖産興業の時代には、「女工哀史」ではないですが、織物工場で大量の女性が年季奉公で働かされたりしています。

 江戸時代だって、結婚前の若い女性は「女中などで奉公」していたわけです。



 以前、このブログでも書きましたが、


貧困女子がなんぼのもんじゃい ~だって、そもそも女子はみな貧困じゃないか!~
http://kotaro-yoshiie.blogspot.jp/2015/04/blog-post_56.html



そもそも、女子はみな貧困である、というのが実態ですから、


日本の長い歴史において、女性が経済的に自立することが実現した期間はない


と言ってよいと思います。



 では、そうした女性が、経済的に自立できずとも、貧困状態ではない暮らしを送るにはどうしたらいいのでしょうか?


 いくつかモデルを想定しながら、女性たちの生活実態をシュミレートしてみましょう。




【モデル1】 年季奉公という生き方。

 江戸時代から明治にかけての女性活用法である「年季奉公」は、賃金に相当するものは「女子たちの親に支払う」ことが普通です。

 そのため、女子たちは仕事をはじめた瞬間から「借金を背負って」います。
 その借金を返すために働くわけですが、借金を返し終えると、「年季が明けて自由の身」となるわけです。


 彼女たちは、経済的に自立はしていませんし、自由になるお金もありません。しかし、衣食住については確保されています。雇用者のもとで、住み込みという形で住居が与えられ、食事もあたえられるわけです。


 年季が明ければ自由の身ですが、誰かと結婚して扶養されてゆくか、ある程度雇用者のもとで働き続けるか、という選択になったことでしょう。


 年季奉公中は、基本的には雇用主に手を付けられない限りは、妊娠や出産を避ける傾向にありました。

 しかし、お手つき女中になってしまった場合は、あとで解説する妾や愛人に移行することもあったと言います。

 


【モデル2】 専業主婦という生き方。(パート含む)

 昭和時代に日本を席巻した、おそらく女性にとって一番マシだった生活方法です。大学へ進学することよりも、いい男を早く捕まえて結婚することが最善とされた時代です。

 24歳までは価値があるというクリスマスケーキ世代で、親が紹介する身持ちのしっかりした人との見合いを含めて、とにかく「主婦になる」ことを目指します。

 主婦になると、夫の扶養になり、衣食住は確保されます。なおかつ、夫の財布を握り、家計という形で資金も支配することができるわけです。

 稼いでいるのは夫なのに、なぜか夫には「お小遣いを渡す」という仕組みになっています。
たく

 ただし、そこに愛があるかどうかは別問題で、夫は浮気もするし、妻も金妻なので、とにかく経済的な安定を考えると、「夫婦形態と専業主婦形態を維持する」ことが重要でした。


 もっとも安定した妊娠と出産を迎えることのできる体制です。

 育児期を避けて少しアルバイトやパートをして自分の小遣いを増やすことも可能です。



【モデル3】 妾・愛人という生き方。

 とくに明治から昭和にかけて流行した若い女性の暮らし方です。ある程度資金力のある男性と結婚外の契約を結ぶことで、セックスを対価にして「衣食住」の安定を図るものです。

 明治期でも昭和でも、「別宅」や「マンション」を与えて女性を「囲い」、月々のお手当てをいただけるもので、そこにちょっとした背徳と愛があります。

 しかし、女性が歳を取ってくると男性側は次の女性に鞍替えしますから、ある程度の手切れ金をいただいて、それから後は「水商売で働く」「小さい飲み屋を出す」「芸者を続ける」などの生活スタイルになることが多かったようです。

 昭和後期の愛人世代は、時代がよかったこともあって、上に記述した別の男性との「専業主婦」へと移行することも多かったようです。


 妊娠と出産はケースバイケースですが、明治期の婚外子は意外と男性の一族として認知されたこともあります。逆に、妊娠出産を期に、捨てられることもありました。



【モデル4】 側室という生き方。

 中世から戦国時代までには当たり前だった生活方法です。明治期にも「妻妾同居」という形で実態としての側室は存在しました。その場合、表向きは「愛人・妾」ではなく「お手伝いさん」を演じていたことがあったようです。

 側室は、身分は妻と同じです。正妻に対していくぶん遠慮することはあったかもしれませんが、「衣食住」の安定は保証され、経済的にもある程度は担保されています。

 正妻に対して感情的にネガティブになることもありましたが、「跡継ぎ」を生めば、一発逆転もありえます。正妻に子がなく、側室に子ができれば、家庭内での立場は一気に強くなりました。


 側室の目的は妊娠と出産ですから、子育てについては万全の体制といえます。



【モデル5】 貧困女子という生き方。

 現代女性の3分の1が直面している実態です。何がしかの非正規もしくは不安定な職業についており、その給与は「衣食住」をかろうじて満たすか満たさないかの水準になっています。

 理念としては経済的に自由人ですが、実態としては自由になるお金はほとんど残っていません。

 結婚に関しては状況によりますが、経済的に余裕のある男性の絶対数が少なくなっているため、結婚後も余裕のない生活を送る可能性が高いと推定されています。


 もし、そうした男性と結婚するとかなり計画的に妊娠と出産を実行する必要があります。



【モデル6】 キャリア女子という生き方。

 女子の中でも、収入の高い企業に就職してバリバリ働いているという絶対数の少ない生き方です。中くらいの程度の企業や職種に就いた女子は、ある程度の段階で結婚して専業主婦もしくは共働きに移行しますので、このモデルには該当しません。

 キャリア女子は、高収入のため2つの課題を抱えています。1つめは「依存すべき、自分よりも年収の高い男性の絶対数が少なく、結婚しにくい」ということ。2つめは、「年収が高いので、それを失うことは避けたいため仕事に全力を投入する」ということです。

 この2つの課題により、結婚と妊娠・出産ができない傾向にあります。




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 こうしてみると、ほとんどの女性がこの6つくらいのモデルを選択しているか、選択せざるをえない状況にあることがわかりますね。



 もうひとつ「実家暮らし」という7つめのモデルがありますが、それは女性の自立モデルではなく、男子の場合も同じなので、今回はパスしておきます。




 さて、類型化すると、女性の貧困問題のツボが浮かび上がってきます。





<ポイント1> 衣食住をどこで確保するか。

 生活のための最低限の条件である、「衣食住」はどのように確保されるのでしょう。

 「雇用主」なのか、「夫」なのか「血の繋がらないパパ」なのか。あるいは「自分」で確保するのか。

 貧困女子は、自分でこれを確保しますが、それだけで後は手いっぱい、ということになります。

 しかし、この中でまともそうなのは「夫」か「自分」かなあ、という気はします。



<ポイント2> 金銭との対価は何か。

 女性が金銭や生きる糧を得るために犠牲にしているものはなんでしょうか?

「夫の家に縛られるので自由を失っている」「借金のために移動や職業の自由を奪われている」「日陰の身にならざるを得ない」「男性を選ぶ幅がせまくなっている」などなど。

 何がしかの面で、女性は対価を支払っています。

 しかし、AVや風俗といった「セックスワーク」を対価にするのであれば、悪いけど「不特定多数の男」よりも、「血の繋がらないパパ(一応愛してる)」や「ご主人様(一応愛している)」のほうが、マシと言わざるをえません、。



<ポイント3> 子孫は残せるか。

 キャリア女子の最大の困難は、子孫を選択するとキャリア生活から転落する可能性が高い、ということです。そうすると、経済的に安定した夫との結婚が前提として成立しなければ、子孫を残すチャンスがどんどん減ってゆく、ということになります。


 妊娠出産育児期間は金銭的空白になるため、「不労所得が入ってくる」か、「誰かに完全に依存する」以外に、収入を得る手段がありません。

 キャリア女子になって、たとえば社長にまでなっていれば、空白期間でも他人が稼いできますので、持ちこたえられますが、雇われ者ではつらいところです。



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 こうしてまとめてみると、女性の生き方で一番マシそうなのは、やはり


「専業主婦」


だと推定できます。「衣食住の確保、犠牲の少なさ、子孫が残せる」を基準にすれば、です。



 しかし、ここで飛躍した考え方をすれば、


「側室」


も意外に悪くなさそうです。ただの愛人や妾だと捨てられる可能性がありますが、側室制度が機能していれば、一応「妻」ですから、専業主婦についで身分が安定してそうな気がします。


 なんと言っても、「子供を生み育てる」ことに重きを置いた制度ですから、人口減少の現代日本においては悪くない制度かもしれません。





 しかし!!!



 ここで「一夫多妻制度がいいんじゃない?」なんてことを言おうものなら、非難ごうごうですから。


 私は男女同権が当たり前だと考えていますので、


「一夫多妻」と同様に「多夫一妻」も許可するべき


だと考えます。


(多夫多妻だと、戸籍も住民票もごちゃごちゃになり、乱交状態なので、これはまずい)



つまり、


「A家という家を基準にして、世帯主である男性が多数の妻を持ってもかまわない」


「B家という家を基準にして、世帯主である女性が多数の夫を持ってもかまわない」


とするのです。


そして、正妻と側室のわけへだてなく、「すべての妻の権利持分は平等」として、万一離婚や死別の際なども、同等に分配されるように法制化すればよいわけです。



 こうすると、一部のお金持ちの「男性」のもとに、多数の女性が嫁げますので、貧困女子の数が確実に減ります。


 いい男が二人妻を持てば、貧困女子の数は半分に減るわけです。


 おまけに、妊娠出産育児の期間の担保ができるので、人口増加が見込め、日本の国力が回復します。

 風俗嬢やAV嬢にならないと生きていけないくらいなら、側室という手はどうでしょうか、という提案なのですが、賛否はものすごいことになりそうですね。


(ただし、何度も言いますが、制度上は女性も多数の夫を持てるので平等ですよ。実際にその権利を行使できる人はごく少数でしょうが・・・)