2017年12月26日火曜日

ビットコインはなぜ儲かるのか ~ギャンブルで勝つ秘密を解明する~



 バブルだバブルだといわれ続けているビットコイン界隈ですが、つい直近大きく値を下げたり(あるいはまた戻したり)して、一喜一憂の狂乱状態をかもし出している今日この頃です(^^


 日銀の黒田総裁が、「ビットコインは投機的」なんて発言をして、そのせいもあって



 なんだ、結局はギャンブルなんじゃないか!



と思う人もいるでしょうし、あるいは



 そんなに儲かるから、俺もやってみようかな?



なんて下心を出す人もいることでしょう。



 さて、そんな多くの人の思惑を乗せて乱高下しているビットコインですが、吉家さんから言わせると、


「ギャンブルで何が悪いんじゃい!大当たりもすれば大はずれもするかもしれないが、それがどうしたんじゃい!」



という気持ちもあります。 私個人は、素人さんにはオススメしないものの、このビットコインバブルには、



”儲かる要素、それがギャンブルであったとしても勝てる要素”



が詰まっていると考えるからです。



 というわけで、今日は、BITCOINでなぜ儲かるのか、という論理的な説明をしてみたいと思います。





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 まず、ギャンブルというのは、「偶発的な確率によって、もたらされる利益(結果)が投資額よりも上がったり下がったりするもの」です。


 そして、そこにはいくつかの公式が存在していて、最も重要な第一の公式は、


1)「開かれる賭場の総和(総合計)は閉じている」


ということが挙げられます。簡単に言い直せば、みんなが100円ずつ出し合ってギャンブルをする場合、10人いれば総合計は100×10で1000円であり、もたらされる結果は、「1000円を超えることはない=閉じている」ということを意味します。


 総和が1000円の賭場があって、誰かがボロ勝ちしても1200円もらえたりはしない、ということが基本中の基本です。



 そして、閉じた場における第二の法則は、


2)掛け金と掛け率の因果は数学的に決まっている


ということが挙げられるでしょう。


 この場合の確率論は、「2倍の掛け金がもらえる場合の勝率は2分の1である」と明確に決まってきます。「4倍の掛け金がもらえる勝率は4分の1」でもいいし、わかりやすいのはルーレットの目ですが、


「勝率と配当金の因果関係は常に一定の法則の下にある」


と言い換えることができます。



 さて、賭場の場合は3つめの法則があって、それは



3)元締めはかならず手数料・ショバ代を最初に差っぴく



というものです。 なので、博打プレーヤーたちの掛け金の総和からは、あらかじめ胴元の手数料が引かれるため、リターンは100%にならないのです。




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 多くのギャンブルはこの「総和-{ショバ代+(プレイヤーたちの勝率&リターン)}」という公式に基づいていますので、FXもパチンコもカジノも、宝くじですら、最終的には「拠出したお金たちの総和」の内部にあると言ってよいでしょう。



 ところが、ビットコインも、「現金などをビットコインに変えた参加者たちの拠出金の総和」で成立していることは同じなのですが、通常のギャンブルとは違って、そこには



 もしかすると儲かるかもしれない要素



が隠れています。




 というのも、少し前から「必ず競馬で利益を上げるAさん」の掛け金が経費になるかどうかというネタが最高裁までいくほど議論されていましたが、



 競馬は論理的に必ず儲けることができる



ことがわかってきたわけです。



 それはなぜか?



 本来であれば、ギャンブルというのは完璧に数学的な確率論ですから、第二の法則によりどの馬が勝ち馬になっても「胴元は必ず儲けるし、総掛け金は閉じているし、参加者たちの間で分配する」ことには変わりないのだけれども、その分配の方式が、ルーレットや機械・電子式パチンコと比較して、人間の考えるオッズと、数学的確率の間にズレが生じていることは意外に気づかれていません。



 ↑ここが、めちゃくちゃミソなのです。



 一体どういうことでしょう。



 馬たちが走ってどの確率で順位が決まるかは、数学的に計算することが可能です。仮に6頭が同時に走るとして、Aの馬が一位になる確率は、単純には6分の一です。


 しかし、人間同士が走っても「一般人とボルトが競争したら、まあほとんどボルトが勝つだろう」と推測できるように、単純確率とはズレるパラメータが存在することもすぐにわかるでしょう。


 ですが、「カールルイスとウサインボルトならどうか」「ベンジョンソンとボルトならどうか」となると、だんだん話が怪しくなってきますね。


 これらも、本来ならそれぞれの体力や、筋力やその日の調子をパラメータとして設定して、数学的な勝利の計算する事ができるでしょう。


 ところが、実際に人間が「ルイスとボルトとジョンソンの誰に賭けるかというオッズは、数学的パラメータがはじき出した、より理想的な確率オッズとはズレる」のです。



 ここにズレが生じるので、このズレこそが、


「数学的に掛け金と賭ける相手を分配したのなら、勝率は常に一定で胴元に取られる分だけ儲からない」事態に対して「胴元が差っぴいた分を勘案しても、数学的勝率と人間のオッズとの間にズレがあるので、その分だけ儲かるチャンスがある」


ということになるわけです。


 競馬で儲けていた人は、このズレとスキマを、多くの馬券を分散して計算どおりに買うことによって、「ズレの部分を際立たせる」ことに成功していた、ということなのです。




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 さて、ビットコインには「信用に裏打ちされた基準となる価格が存在しない」と言うことができます。


 金本位制では金の価格という基準があって、通貨はそれに対して価値を上下させていたわけですが、現在の国家が運営する通貨も


「いきなり明日国が破綻したり、10分後に国が生まれたりはしない」


という安定性を基準にしながら価値を上下させています。株式も、「いきなり社長が株価の半分を博打に突っ込んだりしない」という信用によって、安定的に運用されているわけでもあります。


☆時たま、自分の所有する金の大半を博打に突っ込む経営者がいますが、それはまた別のお話。


 ということは、通貨や株の上下は、そのデータを詳細に取ってゆくと、最終的には数学的勝率へと近づいてゆく可能性が高いということでもあるでしょう。



数学的勝率が存在するなら、そのギャンブルは「ギャンブル必勝法」といわれる「マーチンゲール法」に近くなるということかもしれません。


 マーチンゲール法とは、「勝つまで倍賭けする」ということです。マーチンゲール法は、最後に勝つ、というところが強調されるので必勝法のように見えますが、これは実は、


「負けても数学的に値戻しができる」


ということでもあり、どのように確率が元の値(フラット)に戻るかをシュミレートしているとも言えるでしょう。



 しかし、ビットコインの場合は、


1)数学的勝率を算出する基準というものがそもそもない。

2)つまり、人間の印象だけで価値が変わるという「ズレ」そのもので出来ている。

3)胴元が存在しない。手数料は無視できるほど小さい。


という特徴があるので、



 爆発的に理由なく儲けることができる



ということになるのです。 だから、仮にギャンブル投機であったとしても、理論的に正確なギャンブルよりも儲けられる率が高いと言えるでしょう。







 ですが、最後に言っておきますが、ビットコインの価値は



「もっとも数学的に信用ならない人間の印象のズレの集積体」



であるため、 その価値が、最終的に



ぜんぶすっきりすっかり夢のようなものであった



ということは起こりえます。


 理由なくすべてを失う可能性もあるビットコイン、これぞまさにギャンブルの中のギャンブルと言ってよいかもしれません(苦笑)





2017年12月7日木曜日

【学校をめぐる諸問題08】 子供たちからのSOSをどう受け止めるべきか




 高校生の頭髪をめぐる議論に対して、いろんな感想を抱いている人がいます。


 今日、ネットで上がっていたのは教育ジャーナリストを仕事にしておられるとある方の記事でした。


 大変興味深いので紹介したいと思います。




 高校生の頭髪をめぐる議論 ~過度な自己アピールはSOSかもしれない~
 https://news.yahoo.co.jp/byline/otatoshimasa/20171207-00079011/





 詳しいことはリンク先を読んでください。私はこの方の意見に100%賛同し、そして彼の意見に100%賛同しないのですが、そのあたりの意味不明さはおいおい判明してくることでしょう(笑)



 ちなみに、結論はともかく全体のテイストとしては「大事なポイント」を意外にしっかり押さえた記事なので、理解しやすいと思います。



 いつものように骨子をまとめます。



■ 地毛指導や、黒髪に染めろという指導は人権侵害の要素がある。


■ 強制やおしつけの指導はナンセンスと感じる大人が多く、「効果がない」とする教育者もいる。 


■ 一方、服装やルールの指導は、社会に出るうえでも必須であると考える人も多数いる。



 まあ、このあたりまではわかりやすい話です。このまとめは、いろんなところでもよく出てきます。


 さて、彼の記事で面白かったのは、この問題を「内発的変容」と「外圧的指導」の側面から見ようとしたところです。


 つまり



A 自分の力で変わろう、正そうとする生徒が存在します


B 教師の強制力で変わらせようとする学校が存在します



という2つの視座を提案したところですね。たいへん興味深い。


 そこで彼はひとつの例を提示して、



「進学校の生徒は、自由にさせてもむやみに茶髪にしたりせず、まあ節度を持っている」



という事実を立てて来ます。これも一般的によく知られている事実です。



 そして、


「進学校でない生徒がわざと茶髪にしてくるのは、自己肯定感が低くて、押さえつけられていることへの反発やSOSを発しているからだ」


と、論を進めるわけです。





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 最初の時点で、ワタクシ吉家は、このおおたさんの論を100%肯定すると言いました。


はい、そうです。


「子供たちはSOSを発しているから茶髪にしたり、服装を乱すのだ」


それは100%その通り。まさしくそうです。その昔、尾崎豊が自分で言っているように、大人たちに歯向かって盗んだバイクで走り出すんです。けしてもともと窃盗が好きなわけではない。そこよ。



 そして、なおかつ、そうしたSOSを発し、問題を抱えている生徒が


「内発的、自発的な力によって自分を正すことができるのが理想的である」


とおおたさんは考えているようなので、それも100%激しく同意します。




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 と、ここまではとりあえずOKとしましょう。


 そのあと記事はこういう展開を迎えます。


 「できうるならば、彼らのSOSに耳を傾け、現実的にはリソースが少ない学校でそれを実現するのは難しいけれど、学校の中くらいは理想を語り、こどもたちに寄り添うべきだ」


というお話になるわけです。



 これはちなみに、



 国家の運営がうまくいかず、SOSをたくさん発射して日本海に落としている某国家があったりするけど、理想は国家の運営がそれぞれの民族で自立的、内発的になされるべきなので、理想の国家像を先進国は語りつづけようね



と言っていることとほぼ一緒なので、 (先進国は、他国の経済的排他水域にモノを発射して落としたりはしないぐらい、自律的です) 私は100%賛同しかねるのですが、それはまた別のお話。




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 この記事でいう理想論が実効的でないのは、仮に学校の中で理想論を立てて接したとしても、すでに子供たちの父親や母親が文化的にであったり経済的に「理想的生活を送れていないから、子供たちにもそうした影響が及んでいる」のに、何を持って理想とするのか、という点が抜け落ちているからです。


 SOSを発している。それは100%その通り。



 しかしそのSOSの元になっているトラブルの原因がなにかということを問えば、それは、実は学校の中の問題ではなく、生徒たちが置かれている社会状況と家庭状況の中に原因があるのに、その解決に関わることができない学校の教員が、何をもって理想を語ろうというのか!ということになるわけです。


「じゃあ、あんた、うちのお父さんがリストラされて貧しい今の状況を理想的にどう変えてくれんの」


「じゃあ、あんた、うちのおかんが男つくって出て行って姉妹二人で生活してるの、どう理想的な生活にしてくれんの」


ということに答えられない者が、理想を語ってはいけない、っちゅうことです。



 学校の教師は、SOSの原因が自分についてのことであれば、なんぼでも対応できます。



 しかし、現実に何が起きているかというと「教師が解決できない問題を生徒が抱えていて、それをSOSとして発している」事態が毎日毎分毎秒、日本中で起きているということなのです。




 では、教師が生徒の家庭環境や貧困や、親の無理解や社会情勢などに解決策をもてないのだとすれば、何を提供することができるのでしょうか?


 それは、そうした現実社会の中で、「それでもあなたに不利益がなるべく少ない方法を伝授して、自力で渡っていく技術」を伝達すること以外ありません。



  それが


「他人はみかけで人を判断するから、適切な服装や態度を有することが、逆境のあなたでも大きな助けになるんだよ」


「どこの組織に属しても、挨拶をしっかりできる人間は重宝されるから、そうしたことを大事にしたほうが損をしないよ」


「ルールを逸脱するものは排除されることが多いので、ルールに従ったほうが結果的に生きやすいよ」


という、生きる技術を教えるということなのです。



 けして「学校のいうことを聞け。俺の指導に従え」ではありません。



 もちろん、上記の内容をきちんと伝達している教師もいれば、うまくそれが伝わっていない教師もいるでしょう。


 そして、「そんな大人の世界がいやなら、選挙へいけ!」と教えるべきなのです。


 「そんな大人を変えたいなら、『踊る大走査線』を見て室井さんになれ!」と!



 そこであなたが茶髪にしていても、大人たちは変わりません。変えるなら、トップを取らねばならないのです。



2017年12月1日金曜日

【学校をめぐる諸問題07】 なぜこの世界は生きづらいのか ~黒髪と校則とリクルートスーツから~



 現代ビジネスの記事に面白いものがあったので紹介します。


 日本人の「心情」はすでに大震災前に戻ったのかもしれない
 ~なぜこの社会は生きづらいのか~
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/53629 

  

 精神科医の堀さんという方の記事なのですが、やや話が難解な書き方なのでわかりにくいと感じられるかもしれませんが大変に興味深い話をしておられます。



 簡単に骨子を書くとこんな感じ。


■ 日本人は、ルールを作って運用する人間関係は苦手。


■ 日本人は、身分や上下を明確にしたがり、それが明らかだと意外と従順に従う。


■ 一般には封建的な考え方や、身分的な考え方は悪で、民主主義や平等は善だと考えられている。


■ しかし、日本人は、建前上(オモテ)は民主主義や平等を口にするが、本音(ウラ)では権威主義で封建的な生き方をしている。


■ 一般論から離れて考えると、権威や身分は単純な悪ではない。メリットもある。


■ 一般論から離れて考えると、民主主義や平等にもデメリットがある。



 いわゆる「本音と建前」のように、物事にはオモテウラがあるので、よけいに日本人として生きる中ではわかりにくい、ややこしいものとなっているのですが、それが日本的生きづらさの原因となっているのではないか、という話でした。




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 堀さんが例として挙げているのは、


『 平等的な思想を主眼とした取り組みをしたら、一見すると結果が上がった。しかし、平等を重んずるあまりに権威や身分を否定し始めると、チームや組織が崩壊した』


という医療現場の実態がありました。


 彼の言い方を借りれば、「権威的なもの」が旧来からあったけれど、近年は「反権威的なもの」も力を伸ばしてきて、それらが矛盾するから生きづらさが生まれている、というわけです。


 特に、今の若者はその2つの間で板ばさみになっているから、「立ち去るか引きこもるかしかない」というわけで。






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 この堀さん的視点で、たとえば校則や黒髪強要について考えると、現代の日本人が抱えている問題点がわかりやすくなってきます。



 とある高校生が地毛なのに黒髪を強要された、という訴えから先日「校則とはどうあるべきか」という議論が沸きましたが、結論から言えばとても簡単な図式です。





「表向きは、個性は大事であるとか、人権が大事であるということになっているが、実際にはその学校の周辺の住民や、企業の採用者は、『個性的な茶髪はいらない』とか『服装の乱れたものは見下そう』と考えているから、それを知っている学校・教師としては校則や規則でしめつけなくてはいけない」




ということが起きているわけです。いわば学校は、世間に対して忖度しているわけですが、これを強制するから権威主義的であり、封建的に見えてしまうということが起きるわけです。



 ところが、まったく同じことを大学3年生~4年生になると、今度は生徒自身が、世間に忖度して「茶髪でも黒髪に戻したり、みんなが没個性的なリクルートスーツを選ぶ」ことをやりはじめます。




 結果としてはおなじ行為を行うのだけれど、この文章の最初のほうに述べたように




 権威主義的で封建的なものは悪だよね



ということになっているので、学校は悪者にしやすいわけですね。



 もちろん、学校からすれば、それならほったらかしにして好きにすればいい、と思っているわけですが、実態は「服装や髪を自律的に忖度して世間さまに合わせられる能力がある」生徒と「そんな器用なことはできない」生徒がいるわけで、そのために



 偏差値の高い高校の生徒は制服も校則も比較的自由(忖度できるから)


 偏差値の低い高校の生徒ほど、世間の目を代弁する教師によって締め上げられる



ことが現実に起きているわけです。




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 これらは日本的社会のある意味最大の特徴なので、治りません。だから、そのしくみを理解して世渡りするものだけが最終的に得をします。


 学校の教師たちは、基本的には生徒に損をさせたくないので、最大公約数的に没個性で従順な人間を育てようとするわけです。



  もちろん、中には突然変異的に、個性的かつ高能力な者がいるかもしれませんが、学校側からすればそうした能力の高い人間は、偏差値教育の中で上位に選別されてそういう学校に行っている確率が高いので、これまた最大公約数的に、没個性な指導をすれば結果的に数学的には正解になるわけです。




 もし、本当に民主的で平等なルールを制定したいなら



20歳までは法的に責任を持たされるべき

「PTA(保護者)に校則を作らせる」

のが一番です。


 まあ、そうすると、子供たちが損をしないように、という意味では最も強力で制限的な校則が出来上がることになるわけですが(笑)


 あるいは、仮に自由な校則が出来て、生徒達が将来損をしても、それは保護者の責任ということでいいのではないでしょうか。



 可哀想なのは、何にも知らずに「自由と平等は正しい」と思いながら世間へ出てゆく子供たちですね。